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田辺三菱製薬の企業価値は向上するのか――ベインが進める「日本特化型製薬会社」への再構築

田辺三菱製薬から社名を変更した田辺ファーマが、急速な事業再編を進めている。

2025年7月、米国の投資ファンドであるベインキャピタルは、三菱ケミカルグループから田辺三菱製薬を約5100億円で買収した。その後、ALS治療薬エダラボン事業の売却、ワクチン製造会社BIKENとの合弁解消、国内工場と長期収載品の東和薬品への譲渡など、大規模な資産整理を相次いで発表している。

一見すると、利益を生む事業や工場を次々に売却する「切り売り」にも見える。

しかし、全体を通して見ると、ベインが目指しているのは単なるコスト削減ではない。

田辺ファーマを、製造設備や成熟製品を大量に抱える総合製薬会社から、研究開発、製品導入、日本国内での承認取得、販売に特化した高収益のスペシャリティファーマへ転換しようとしている。

この再生戦略によって、田辺ファーマの企業価値は本当に向上するのだろうか。

結論から言えば、私は「短期的には企業規模が縮小するものの、3~5年後の企業価値は上昇する可能性が高い」と考えている。

ただし、その成否は、売却で得た資金をどのような新薬に再投資できるかにかかっている。

田辺ファーマで何が起きているのか

ベイン傘下入り後の主な動きは、次のように整理できる。

2025年7月にベインが買収を完了し、同年9月には、前ファイザー日本法人社長の原田明久氏がCEOに、前武田薬品工業CFOのコスタ・サルウコス氏が会長に就任した。

さらに、2025年12月には田辺三菱製薬から田辺ファーマへ社名を変更した。

その後、収益の柱だったALS治療薬ラジカヴァを含むエダラボン事業を塩野義製薬に約25億ドル、約3900億円で売却した。加えて、BIKEN株式の売却、製造子会社である田辺ファーマファクトリーの東和薬品への譲渡、長期収載品17成分35品目の承継を進めている。

買収額が約5100億円だったのに対し、エダラボン事業の売却額だけで約3900億円である。

単純計算では、ベインは買収後1年に満たない段階で、投下資本の相当部分を回収したことになる。もちろん、負債や税金、取引費用、売却対象に含まれる利益などを考慮する必要はあるが、投資リスクが大幅に低下したことは間違いない。

重要なのは、売却後も田辺ファーマに国内販売網、研究開発機能、薬事対応能力、医療機関との関係、企業ブランドなどが残ることである。

ベインは、資産価値の高い事業を売って投資元本を回収したうえで、残った会社を別の事業モデルに作り替えようとしている。

ベインの狙いは「規模」ではなく「資本効率」

従来の製薬会社は、自社で研究し、自社で開発し、自社工場で製造し、自社の営業部隊で販売するという垂直統合型のビジネスモデルを採用してきた。

しかし、このモデルは固定費が大きい。

工場を維持するだけでも、設備投資、品質管理、製造人員、在庫管理、当局対応など、多額のコストが発生する。長期収載品も安定した売上を生む一方、日本では薬価改定によって価格が継続的に引き下げられるため、高い成長率や利益率は期待しにくい。

そこでベインは、成熟製品と製造設備を売却し、製造は外部企業に委託するアセットライト型の経営へ移行している。

工場を持たなくても医薬品事業は継続できる。長期収載品を所有しなくても、革新的な新薬を導入して販売することはできる。

ベインが重視するのは、売上高の大きさではなく、

  • 投下資本利益率
  • 営業利益率
  • キャッシュフロー
  • 成長パイプラインの価値
  • 将来の買収候補から見た魅力

である。

そのため、売上高が減ったとしても、利益率と成長期待が高まれば、企業価値は向上し得る。

「米国重視」から「日本市場重視」への転換

田辺三菱製薬は三菱ケミカル傘下にあった時代、日本市場の薬価抑制を問題視し、米国市場へのシフトを進めてきた。

ところが、ベイン傘下の田辺ファーマは、米国で大きな売上を持っていたラジカヴァ事業を売却し、むしろ日本市場への集中を打ち出している。

一見すると逆行しているように見えるが、ここには合理性がある。

現在の日本では、欧米で承認されているにもかかわらず、日本では開発や申請が行われない「ドラッグラグ」「ドラッグロス」が問題になっている。

海外の新興バイオ企業にとって、日本で単独開発を行うことは負担が大きい。日本独自の薬事制度への対応、臨床開発、医療機関との関係構築、販売組織の整備が必要になるためである。

田辺ファーマは、この隙間を狙っている。

原田CEOらは、米国の探索チームを通じ、免疫、希少疾患、がん、神経領域を中心に、日本へ導入可能な医薬品を毎年2~3品目選定し、年間最大3製品の新薬投入を目指す方針を示している。

つまり、世界最大の製薬会社を目指すのではなく、

「海外で生まれた有望な新薬を、日本で最も効率よく開発・承認・販売できる会社」

になることが、田辺ファーマの新しいポジショニングと考えられる。

これは、日本市場に特化した製薬プラットフォーム事業ともいえる。

企業価値が向上すると考える三つの理由

1.買収価格に対する下方リスクが大幅に低下した

最大のポイントは、エダラボン事業の売却によって、ベインが買収資金の大部分を早期に回収したことである。

仮に残存事業の再建に時間がかかっても、投資全体としての損失リスクは限定される。

投資元本の回収が進めば、ベインは残った資金を使って、比較的長い時間軸で研究開発や製品導入を進められる。

通常の製薬企業であれば、既存の大型製品を売却することには強い抵抗がある。しかし、投資ファンドは、過去の売上構成ではなく、今後のキャッシュフローと売却価値から判断する。

ラジカヴァを保有し続けるよりも、高い価格で売却し、その資金を複数の新薬候補へ分散投資した方が、リスク調整後の企業価値が高くなると判断したのだろう。

2.利益率が改善する余地が大きい

田辺ファーマの前身である田辺三菱製薬は、2025年3月期に売上高4604億円を計上した。営業利益率は14%程度だった一方、ベイン傘下の経営陣は、コア営業利益率を20~30%まで引き上げる目標を掲げている。達成までには3~5年かかるとの見通しである。

工場や低収益製品を切り離すことで、売上高は減少する可能性が高い。

しかし、例えば売上高が3000億円に縮小しても、利益率が25%になれば、コア営業利益は750億円になる。

売上高4600億円、利益率14%の場合の利益は約640億円である。

つまり、企業規模を小さくしながら、利益額とキャッシュ創出力を高めることは可能だ。

さらに、製造設備などへの投資が減れば、フリーキャッシュフローも改善しやすくなる。

M&A市場では、単に売上高が大きい会社よりも、高い利益率、継続的な成長、少ない設備投資でキャッシュを生む会社の方が、高い評価倍率を得やすい。

3.日本の新薬導入プラットフォームには需要がある

世界には、優れた医薬品候補を持ちながら、日本法人や日本での開発能力を持たないバイオ企業が数多く存在する。

田辺ファーマが、日本国内の臨床開発、承認申請、薬価収載、販売までを一体で提供できれば、海外企業にとって魅力的な提携先になる。

特に希少疾患では、患者数が限られているため、海外企業が日本に大規模な組織を設ける合理性は低い。

一方、田辺ファーマは既存の国内販売基盤を活用できる。

導入契約では、開発費や販売リスクを一定程度分担しながら、契約一時金、マイルストーン、売上ロイヤリティ、国内販売利益などを組み合わせられる。

複数の製品を継続的に導入できれば、一つの自社開発品に依存するよりも、事業リスクを分散しやすくなる。

ただし、成功が保証されているわけではない

企業価値向上の最大のリスクは、資産売却そのものではない。

問題は、売却後に魅力的な新薬を獲得できるかどうかである。

導入競争は激しい

有望な医薬品候補には、国内外の大手製薬会社が殺到する。

田辺ファーマが毎年2~3品目を選定できたとしても、競争力の高い条件で契約できるとは限らない。

高額な契約一時金を支払って導入した製品が、臨床試験や承認審査で失敗する可能性もある。

製薬会社の価値は、導入した案件数ではなく、最終的に承認され、十分な売上と利益を生んだ製品数で決まる。

既存主力品の減収が早い可能性がある

田辺ファーマの国内主力品には、乾癬などに使われるステラーラや関節リウマチ治療薬シンポニーがある。

しかし、ステラーラにはバイオシミラーが参入しており、シンポニーも将来的な競争激化が見込まれる。

既存製品の減収を新薬が補うまでには時間がかかる。

そのため、今後数年間は、売上高が大きく縮小する「谷」が生じる可能性がある。

共同販促品だけでは高い企業価値になりにくい

糖尿病・肥満症領域で急成長しているマンジャロは、田辺ファーマの国内事業にとって重要な製品である。

ただし、マンジャロは日本イーライリリーとの共同販促品であり、田辺ファーマが製品そのものの権利を保有しているわけではない。

販売手数料や共同販促収入は得られても、自社製品ほど高い利益や長期的な資産価値を生まない可能性がある。

高い企業価値を実現するには、自社開発品または日本での強い権利を保有する導入品を増やす必要がある。

人材流出のリスク

急速な事業売却や組織再編は、従業員に大きな不安を与える。

工場や歴史ある製品が相次いで切り離されれば、「次は自分の部門ではないか」と考える社員も増える。

製薬会社の研究開発や薬事、メディカル、事業開発の能力は、人材に依存する。

コスト削減を急ぎすぎて優秀な人材が流出すれば、導入品を評価し、開発し、承認に導く能力そのものが弱くなる。

これは、ファンド型再建で最も注意すべき点である。

今後3~5年の展開を予想する

第1段階:資産整理とコスト構造改革

2026年から2027年にかけては、工場譲渡や長期収載品の承継を完了させ、組織とコスト構造を再設計する期間になるだろう。

管理部門、研究テーマ、営業体制も見直される可能性が高い。

すべての研究領域を維持するのではなく、免疫、希少疾患、神経、がんなど、勝てる可能性がある領域に集中すると考えられる。

この時期は売上高の縮小が目立つため、外部からは「田辺ファーマが小さくなった」と見えるかもしれない。

しかし、企業価値を判断するには、売上高よりも、固定費、利益率、現金残高、導入パイプラインを見る必要がある。

第2段階:海外新薬の導入ラッシュ

2026年後半から2028年にかけて、海外バイオ企業との導入契約が相次ぐと予想する。

田辺ファーマは、年間最大3品目の新薬投入を目指しているため、その前段階として、毎年複数の導入・共同開発契約を成立させる必要がある。

初期には、すでに欧米で承認されているか、後期臨床試験まで進んでいる製品が中心になるだろう。

完全な初期研究案件よりも、日本での承認確率と上市までの速度を重視するはずだ。

これは、ファンドの投資期間が一般的に限られており、10年以上先の成功を待つより、3~5年で成果を可視化する必要があるためである。

第3段階:主力となる自社・導入品の育成

現在の自社パイプラインでは、赤芽球性プロトポルフィリン症、EPPに対する開発品が有望候補とされており、経営陣は大型化する可能性にも言及している。

この製品に加えて、ユプリズナの適応拡大や複数の導入品が成長すれば、既存主力品の減収を補える。

ただし、一つの製品だけに依存すると、再び特許切れや競合参入の影響を強く受ける。

企業価値を安定的に高めるには、年間売上高100億~500億円規模のスペシャリティ製品を複数持つ構成が望ましい。

第4段階:再上場か、製薬会社への売却

最終的にベインは、田辺ファーマを永久保有するわけではない。

有力な出口は二つある。

一つ目は再上場である。

利益率20~30%を実現し、毎年複数の新薬を投入できる成長企業としての実績ができれば、東京証券取引所への上場は十分に考えられる。

「日本のドラッグロスを解消する製薬プラットフォーム」というストーリーは、株式市場にも説明しやすい。

二つ目は、国内外の製薬会社への売却である。

国内販売網、薬事機能、希少疾患パイプライン、海外バイオ企業との契約を持つ会社になれば、日本市場を強化したい海外製薬企業にとって魅力的な買収対象になる。

また、国内の中堅製薬会社との統合も考えられる。

私は、現時点では再上場よりも、戦略的買い手への売却の方が可能性はやや高いと考えている。

製薬会社は新薬の臨床結果によって評価が大きく変動する。ベインにとっては、株式市場で段階的に保有株を売却するよりも、シナジーを評価する製薬会社に一括売却した方が、確実に高い価格を得られる可能性があるからだ。

一方、複数の新薬が順調に成長し、安定したパイプライン更新モデルを確立できた場合は、再上場によってさらに大きな評価を得られる可能性もある。

企業価値はどの程度まで向上するのか

企業価値を単純に予測することは難しいが、方向性を考えることはできる。

買収時の企業価値は約5100億円だった。

エダラボン事業を約3900億円で売却した後も、国内事業、研究開発機能、ユプリズナ、共同販促品、その他の製品、現金などが残っている。

仮に再編後の田辺ファーマが、

  • 売上高2500億~3500億円
  • コア営業利益率20~25%
  • 営業利益500億~875億円
  • 複数の成長製品と後期パイプラインを保有

という状態になれば、企業価値が再び5000億円を超えることは十分にあり得る。

成長期待が強ければ、7000億~1兆円規模の評価も理論上は不可能ではない。

この場合、ベインはエダラボン事業などの売却代金で投資資金の多くを回収したうえで、残存会社の売却または上場によって追加の大きなリターンを得ることになる。

ただし、これは導入品や自社開発品が成功した場合のシナリオである。

既存製品が減収する一方、新薬の導入が進まなければ、利益規模が縮小し、企業価値が3000億~4000億円程度にとどまる可能性もある。

したがって、今後の評価で最も重要なのは、工場売却による一時的な利益ではない。

見るべき指標は次の通りである。

  1. 新たに導入した製品の数と開発段階
  2. 日本での権利範囲と利益配分
  3. 自社パイプラインの臨床試験結果
  4. 既存主力品の減収速度
  5. 研究開発費を除いた実質的な収益力
  6. 重要人材の採用と流出
  7. 売却資金が成長投資に使われているか

まとめ――成功の鍵は「売った後」にある

田辺ファーマで進んでいる改革は、単なる資産の切り売りではない。

成熟製品、海外大型製品、製造設備などを切り離し、国内での新薬開発、導入、承認、販売に特化したアセットライト型の製薬会社へ転換する試みである。

ベインにとっては、エダラボン事業の売却によって投資リスクを大きく下げながら、残存会社の利益率と成長性を高めることができる。

その意味で、財務戦略としては非常に巧みである。

ただし、企業価値を本当に高めるのは、資産売却ではない。

売却で得た資金を使い、有望な新薬を適切な価格で導入し、臨床開発と承認を成功させ、国内市場で成長させられるかどうかである。

今後1~2年は、売上規模の縮小と組織再編が目立つだろう。

その後、2027年から2029年ごろにかけて、導入した新薬や自社開発品の成果が見え始める。

そこで複数の成功例を作ることができれば、田辺ファーマは、かつての「国内大手製薬会社の一角」ではなく、「日本市場への新薬導入に強い高収益スペシャリティファーマ」として、新しい企業価値を獲得する可能性がある。

私の予想は次の通りだ。

田辺ファーマの企業価値は、短期的には売上縮小によって見えにくくなるが、中期的には向上する可能性が高い。ただし、その上昇幅を決めるのは、ベインのコスト削減能力ではなく、田辺ファーマの事業開発力と新薬開発力である。

ベインによる再生が成功したかどうかを判断できるのは、資産売却が一巡した今ではない。

本当の勝負は、まさにこれから始まる。

中国の薬価引き下げを逃れるため、医師の署名を偽造――この事件が示す外資系製薬会社の「中国市場の限界」

中国政府が進める医薬品の集中購買制度をめぐり、ある外資系製薬会社が、対象医薬品の薬価引き下げを回避するため、医師の署名を偽造していたことが明らかになった。

単なる一企業のコンプライアンス違反として片づけることもできる。

しかし、この事件の背景には、中国の医薬品市場で急速に進む薬価引き下げ、特許切れ先発品の価値低下、そして外資系製薬会社が直面するビジネスモデルの限界がある。

今回は、このニュースの内容と意味を考えてみたい。

何が起きたのか

中国の国家医療保障局、NHSAによると、ある海外の先発医薬品メーカーが、自社製品を中国の集中購買制度の対象から外すよう求める医師の陳情書を提出した。

陳情書には、31病院に所属する医師らの署名が78件付されていた。

ところが、当局が調査したところ、署名の80%以上に問題があったという。

具体的には、

  • 営業担当者が医師の署名を偽造した
  • 別の資料に掲載された署名画像を流用した
  • 実在しない人物の名前を使った
  • 医師にアンケートや市販後調査だと説明し、陳情書とは知らせずに署名させた

といった手法が使われていた。

つまり、単に書類の形式を整えただけではない。医師の専門的意見を装い、政府の薬価政策に影響を与えようとした疑いがある。

中国当局は問題となった会社名と医薬品名を公表していない。

報道を受けて、ノバルティス、武田薬品工業、バイエル、エーザイなどは、自社ではないと否定している。したがって、現時点で特定の会社を犯人扱いすることはできない。

中国の集中購買制度とは何か

事件を理解するには、中国の「集中購買制度」を知る必要がある。

中国語では「帯量採購」、英語ではVolume-Based Procurement、VBPと呼ばれる。

簡単に言えば、中国政府が製薬会社に対して、

大量の購入を約束する代わりに、薬価を大幅に引き下げさせる

仕組みである。

政府または公的機関が複数の病院の需要をまとめ、製薬会社に入札をさせる。安い価格を提示して落札した企業は、巨大な公立病院市場で一定の販売量を確保できる。

一方、落札できなかった企業は、公立病院での処方や販売が大きく減る可能性がある。

中国は2018年からこの制度を導入し、主に特許が切れた医薬品を対象として全国に拡大してきた。今回で12回目となり、65種類の医薬品が対象になった。対象市場の合計規模は約600億元、日本円にすれば1兆円を超える規模である。

この制度は、医療費を抑制するという意味では極めて強力だ。

反面、製薬会社にとっては、それまで高い価格で販売してきた薬の収益が一気に失われる制度でもある。

なぜ医師の署名まで偽造したのか

外資系製薬会社が中国で販売している特許切れ先発品の中には、長年にわたり高い市場シェアを維持しているものがある。

中国では、患者や医師が国内メーカーの後発医薬品よりも、欧米や日本の先発品を好む傾向が指摘されてきた。

その結果、特許が切れた後も、外資系企業の先発品が高い価格と高いシェアを維持するケースがあった。

しかし、集中購買制度に組み込まれると状況は変わる。

後発医薬品メーカーとの価格競争になり、従来の価格を維持することは難しい。値下げを拒否すれば、公立病院市場から事実上締め出される可能性がある。

今回の対象薬は不明だが、仮に年間数百億円規模の売上高がある製品なら、集中購買の対象になるかどうかで、企業の利益は大きく変わる。

そのため、問題の企業は、

「この薬は後発品と単純に置き換えるべきではない」

「臨床現場では先発品が必要とされている」

という医師の意見を集め、集中購買の対象から外そうとしたと考えられる。

医師の意見自体を政策決定の参考にすることは、おかしなことではない。

問題は、その意見が実際には存在しなかったことである。

これは営業担当者だけの暴走なのか

今回の事件で重要なのは、署名を偽造した営業担当者だけを処分すれば終わりなのか、という点である。

78件の署名を31病院から集めたように見せる行為は、相当程度組織的である。

仮に営業担当者が独断で署名を作ったとしても、なぜそこまでして陳情書を完成させる必要があったのかを検証しなければならない。

考えられるのは、会社内部で、

  • 集中購買の対象から外すこと
  • 現行価格を維持すること
  • 売上目標を達成すること
  • 医師から一定数の賛同を集めること

などに強いプレッシャーがかかっていた可能性である。

製薬業界では、明示的に「不正をしろ」と命令されなくても、実現困難な目標が設定されれば、現場が不適切な手段に走ることがある。

したがって、調査すべきなのは署名を書いた人物だけではない。

誰が陳情活動を企画したのか。

どの部門が署名数の目標を設定したのか。

経営陣やコンプライアンス部門は内容を確認したのか。

営業担当者の評価や報酬に結びついていなかったか。

こうした組織的背景まで調べなければ、再発防止にはならない。

中国政府による「見せしめ」の意味もある

今回、中国政府は企業名を公表していない一方で、署名偽造の具体的な手口を詳しく公表した。

これは業界全体に対する警告と見るべきだろう。

中国政府としては、製薬会社が医師や病院を使って集中購買制度を骨抜きにすることを許さない、という姿勢を示したことになる。

特に中国では、製薬会社と医師との関係は長年、政府の監視対象になってきた。

製薬会社が医師に利益を提供し、処方を増やしてもらう営業モデルは、汚職防止政策の対象となっている。

今回のように医師の署名を政策ロビー活動に利用する行為は、中国政府から見れば、単なる文書偽造ではない。

医師の権威を利用して、国家の医療費抑制政策を妨害しようとした行為に映る。

そのため、今後は集中購買への働きかけだけでなく、医師へのアンケート、市販後調査、専門家会議、患者団体の要望書などについても、監視が強まる可能性がある。

ただし、中国の集中購買制度にも問題はある

今回の不正は明確に批判されるべきである。

だからといって、中国の集中購買制度に問題がないわけではない。

制度では価格が極めて重視されるため、

  • 安さが品質より優先されるのではないか
  • 後発品の品質や安定供給は十分か
  • 価格が下がりすぎて製造会社が撤退しないか
  • 医師が患者ごとに薬を選ぶ余地が失われないか

という懸念がある。

2025年には、中国の医師から、集中購買で採用された一部の後発医薬品について、効果や副作用に関する疑問が示された。

中国当局は調査の結果、品質上の懸念は裏付けられなかったと説明したが、欧州企業の団体からは、調査の透明性や科学的根拠が不十分だという批判も出た。

つまり、本来必要なのは、

「先発品は高いから排除する」

「後発品は安いから問題ない」

という単純な議論ではない。

臨床データ、品質、供給能力、患者への影響を透明な手続きで評価する仕組みである。

今回の企業が正当な懸念を持っていた可能性は否定できない。

しかし、署名を偽造したことで、その主張の信頼性を自ら失ってしまった。

外資系製薬会社の中国戦略は転換を迫られる

今回の事件は、外資系製薬会社が中国で従来型のビジネスを続けることが難しくなっていることを示している。

これまで外資系製薬会社は、

  • 欧米や日本で開発した薬を中国に導入する
  • 先発品として高い価格を設定する
  • 大規模な営業組織で医師に情報提供する
  • 特許切れ後もブランド力で高いシェアを維持する

というモデルで成長してきた。

しかし、中国政府は、特許切れ医薬品については価格を大幅に引き下げ、国内後発品への置き換えを進めようとしている。

この環境で、成熟した先発品の価格を守ることに経営資源を投入しても、長期的には勝てない。

外資系企業に必要なのは、集中購買を回避するためのロビー活動ではなく、

  • 中国で本当に差別化できる新薬を早く発売する
  • 中国企業や研究機関と共同開発する
  • 中国発の新薬を海外市場に導出する
  • 製造やサプライチェーンを含めて現地化する
  • 特許切れ製品への依存を減らす

といった戦略である。

中国市場は依然として巨大だが、「海外の有名な薬を高く売るだけ」で利益を上げられる市場ではなくなっている。

日本企業にとっても他人事ではない

今回の第12回集中購買の対象には、武田薬品工業、第一三共、アステラス製薬、大塚製薬、エーザイ、住友ファーマなど、日本企業の製品も含まれていると報じられている。

したがって、今回の問題は欧米企業だけの話ではない。

日本の製薬会社も、中国で販売している特許切れ品や長期収載品について、同じ薬価圧力を受ける。

日本企業は一般的にコンプライアンスを重視するとされるが、現地法人に厳しい売上目標を与え、政策変更への対応を現場に任せれば、同様の問題が起こる可能性はある。

本社は単に、

「現地法を守ること」

「不正をしないこと」

と指示するだけでは不十分である。

達成不可能な売上計画を残したまま、コンプライアンスだけを求めることは矛盾している。

薬価引き下げを前提として事業計画を組み替え、撤退、縮小、ライセンス供与などを含めた現実的な選択肢を用意する必要がある。

今回の事件の本質

今回の事件は、一部の社員が医師の署名を偽造したという不祥事である。

しかし、その本質は、中国市場の変化を受け入れられない製薬会社が、失われつつある既得権益を守ろうとしたことにあるのではないか。

特許が切れ、同等の後発医薬品が存在するのであれば、先発品の価格が下がること自体は避けにくい。

先発品の方が臨床的に優れていると主張するなら、偽造された署名ではなく、比較試験や実臨床データを示すべきである。

医師が先発品を必要としていると言うなら、透明な手続きで、医師自身が実名で意見を述べられる制度を作るべきである。

製薬会社の利益を守るために医師の権威を利用すれば、結果として医師、製薬会社、医薬品そのものへの信頼が損なわれる。

おわりに

中国の集中購買制度は、製薬会社にとって非常に厳しい制度である。

価格を大幅に下げなければ巨大な公立病院市場を失い、値下げに応じれば利益率が急低下する。

それでも、政策を回避するために医師の署名を偽造することは許されない。

むしろ今回の事件は、外資系製薬会社に対して、成熟品の価格維持に依存する中国事業から転換すべき時期が来ていることを示している。

中国市場で今後評価されるのは、ブランドの歴史でも、営業担当者の人数でもない。

本当に新しい治療価値を提供できるか。

その価値を客観的なデータで説明できるか。

そして、薬価引き下げ後も持続可能なコスト構造を作れるか。

今回の署名偽造事件は、中国政府の強権的な薬価政策の問題を映すと同時に、変化した市場に適応できない製薬会社側の苦境も浮き彫りにした事件だと考える。

「アイパーク神戸」で日本の創薬は強くなるのか――立派な研究施設だけでは薬は生まれない

三菱商事都市開発とアイパークインスティチュートは、神戸医療産業都市でマルチテナント型のライフサイエンス研究開発施設「アイパーク神戸」の建設を開始した。

施設は地上8階建て、延床面積約1万2000平方メートル。2026年7月に着工し、2027年秋の竣工・運営開始を予定している。研究用排水設備、個別空調、耐薬品仕様の床などを備えたウェットラボとして整備される。立地する神戸医療産業都市には、すでに333社の医療関連企業・団体が集積しているという。

政府が創薬力強化を掲げ、創薬ベンチャー支援やバイオ医薬品製造基盤の整備を進める現在の流れに、見事に合致したプロジェクトに見える。

しかし、ここで素朴な疑問が生じる。

立派な研究施設を建てれば、本当に日本の創薬力は強くなるのだろうか。

結論から言えば、建物を造っただけでは、おそらく強くならない。

一方で、「箱物だから無意味だ」と切り捨てるのも正しくない。問題は建物の有無ではなく、その中で資金、人材、科学、経営、臨床開発が循環する仕組みをつくれるかである。

アイパーク神戸は、単独の研究所ではない

アイパーク神戸は、製薬企業1社が自社研究所を建設するプロジェクトではない。

複数の企業やスタートアップが入居する賃貸ラボ型施設であり、湘南ヘルスイノベーションパーク、いわゆる湘南アイパークの運営ノウハウを神戸に展開する構想である。

湘南アイパークは、もともと武田薬品工業の湘南研究所だった施設を外部に開放したものだ。現在は120を超えるテナントが入居し、勤務者は2500人以上に拡大している。製薬企業、創薬ベンチャー、研究支援企業、VC、商社、行政などが集まり、2025年時点では入居企業からIPOやM&Aも生まれている。

したがって、アイパーク神戸は、単なる不動産開発より一歩進んだ構想ではある。

実験設備を備えたラボを小規模な企業が自前で用意するには、多額の初期投資と長い準備期間が必要になる。電源、空調、排水、安全管理、薬品保管といった設備も、通常のオフィスとは比較にならないほど複雑である。

すぐに使えるウェットラボがあれば、大学発スタートアップや海外企業は、研究開始までの時間と資金を節約できる。

この意味では、「箱」は必要である。

創薬においては、普通の貸しビルでは代替できないからだ。

しかし、建物は創薬の主役ではない

問題は、日本の創薬力低下の主因が、研究施設の不足だけではないことである。

政府の創薬力強化に関する資料でも、課題として挙げられているのは、アカデミアとVC・製薬企業の間の開発ギャップ、臨床段階での資金不足、起業経験者の不足、海外ネットワークの弱さなどである。政府自身も、資金の循環や人材の高度化、海外資本を含むエコシステムの形成が必要だと認識している。

日本製薬工業協会の資料では、日本のアカデミア発ベンチャーへの投資額は欧米の100分の1程度にすぎないと指摘されている。

研究室を用意しても、研究を臨床試験まで進める数十億円、場合によっては数百億円の資金がなければ、新薬にはならない。

優れた研究者がいても、その技術を事業化する経営者がいなければ会社は育たない。

会社が設立されても、米国で臨床開発を進め、FDAと協議し、海外投資家から資金を調達できる人材がいなければ、世界市場には出ていけない。

さらに、新薬が承認された後に十分な事業価値を回収できる市場環境がなければ、海外の企業や投資家は日本に来ない。

つまり、創薬力を決めるのは建物の豪華さではない。

資金、人材、意思決定速度、臨床開発力、市場の魅力である。

日本で繰り返されてきた「集積」の誤解

日本の産業政策では、大学、研究機関、企業を一定の地域に集めれば、自然にイノベーションが起きるという発想が繰り返されてきた。

しかし、物理的に近くにいるだけでは、共同研究もスタートアップも生まれない。

隣の建物に大学研究者がいても、知的財産の交渉に1年以上かかれば、企業は連携を諦める。

同じ施設にVCが入っていても、数億円規模の投資しかできなければ、臨床開発は支えられない。

交流会を毎月開催しても、意思決定権を持つ製薬会社の研究開発責任者や、実際に投資できる海外VCが参加していなければ、名刺交換で終わる。

日本では「ネットワーキングイベントの開催件数」や「入居企業数」が成果指標になりやすい。

だが、本来測るべきなのは、次のような数字である。

  • 入居企業が調達した民間資金額
  • 海外VCからの資金調達件数
  • 研究成果から会社設立までの期間
  • 非臨床研究から治験入りまでの期間
  • グローバル製薬企業への導出件数
  • IPO、M&A、ライセンス契約による回収額
  • 成功した起業家による再投資件数

こうした結果が出なければ、どれほど入居率が高くても、創薬エコシステムとして成功したとは言いにくい。

ボストンの強さは、建物ではなく循環にある

創薬クラスターの代表例として、米国のボストン・ケンブリッジがよく挙げられる。

そこにはハーバード大学、MIT、著名病院、大手製薬会社、バイオベンチャー、VCが高密度で集まっている。政府資料でも、地理的集積に加え、大企業とスタートアップが連携しやすく、民間のインキュベーション組織が教育、情報提供、政策提言などを幅広く担っていることが紹介されている。

しかし、ボストンの本当の強みは、研究施設が多いことではない。

大学の研究者が起業し、VCが資金を出し、経験豊富な経営者が会社に入り、製薬企業が買収し、成功した創業者や投資家が次の会社に再投資する。

この循環が何十年にもわたって積み上がっている。

失敗した創業者も、次の企業ではその経験を評価される。製薬企業とベンチャーの間を人材が頻繁に移動する。会社が買収されれば、経営者や研究者は再び新しい会社を立ち上げる。

これに対し日本では、大企業からスタートアップに移ることが依然として大きなキャリアリスクになりやすい。

失敗した創業者が再挑戦しにくく、大学教員の兼業や知財移転にも複雑な手続きが残る。

建物だけをボストンに似せても、人材と資金が循環しなければ、ボストンにはならない。

神戸だからこその可能性はある

もっとも、アイパーク神戸には一定の可能性がある。

ゼロから新しい創薬都市をつくろうとしているのではなく、すでに333社が集積する神戸医療産業都市に追加される施設だからである。

周辺には理化学研究所、神戸大学、病院、医療機器企業、再生医療関連企業などが存在する。神戸空港から近く、三宮からのアクセスも比較的良い。

また、湘南アイパークで施設運営や企業間連携を経験してきたアイパークインスティチュートが運営に関わる点も重要である。同社は単なるビル管理だけでなく、サイエンスメンタリング、薬事勉強会、企業間マッチング、知財支援、バックオフィス支援などを展開している。

したがって、全く中身のない公共施設が突然建設されるケースとは異なる。

問題は、この湘南モデルを神戸でも再現できるか、さらに国際的な創薬拠点に発展させられるかである。

最大のリスクは「国内企業だけで満室になること」

アイパーク神戸が不動産事業として成功することと、日本の創薬力強化に成功することは同じではない。

研究支援会社、医療機器会社、コンサルティング会社、既存企業の小規模な研究部門などが入居すれば、施設の稼働率は上がる。

運営会社としては安定収益を得られる。

しかし、それだけでは革新的な新薬は生まれない。

むしろ注意すべきなのは、「入居率が高いから成功した」と評価されることである。

創薬拠点として重要なのは、どれだけ多くの企業が入ったかではなく、世界市場を目指す創薬ベンチャーが何社育ったかだ。

海外VCが投資したか。

外国人経営者や研究者が神戸に移ってきたか。

米国や欧州で臨床試験を行う企業が生まれたか。

グローバル製薬企業が、神戸の企業から技術を導入したか。

ここまで到達して初めて、日本の創薬力強化に寄与したと言える。

アイパーク神戸に必要な5つの機能

アイパーク神戸を本当の創薬拠点にするには、少なくとも次の5つが必要だろう。

1.海外VCが常時アクセスする仕組み

国内VCとの交流だけでは不十分である。

世界の創薬市場を熟知し、数十億円から数百億円を投資できる海外VCが、定期的に案件を評価する仕組みが必要だ。

年に一度のピッチ大会ではなく、投資家が日常的に企業を発掘し、経営に関与する環境をつくらなければならない。

2.起業家ではなく「創薬経営者」の招聘

研究者に経営研修を受けさせれば、すぐに創薬企業のCEOになれるわけではない。

非臨床、臨床、薬事、資金調達、事業開発、海外展開を経験した経営者を国内外から呼び込む必要がある。

優れた技術に、経験ある経営者を組み合わせる仕組みが重要だ。

3.神戸周辺の病院との臨床開発連携

創薬は研究室の中だけでは完結しない。

患者へのアクセス、治験責任医師、臨床データ、治験事務局など、臨床開発との接続が必要である。

神戸医療産業都市の強みを生かし、研究から治験までの移行時間をどれだけ短縮できるかが問われる。

4.大学知財の迅速な移転

大学発技術のライセンス交渉に長い時間がかかれば、民間資金は入らない。

知財評価、契約、利益相反管理を標準化し、起業までの時間を短縮する必要がある。

5.施設運営と成果評価の分離

入居率や賃料収入だけで評価すると、運営者は信用力のある大企業を優先して誘致する。

一方、創薬政策としては、資金力の乏しい初期ベンチャーを支援する必要がある。

不動産収益のKPIと創薬成果のKPIを明確に分け、後者について政府や自治体が厳格に検証すべきである。

政府の創薬強化策も「建設」から「制度改革」へ

政府は創薬ベンチャーへの支援として、認定VCによる出資を条件にAMEDが開発費を補助する制度を進めている。1課題当たり総額100億円規模まで支援可能な枠組みも用意されている。

これは従来より踏み込んだ政策であり、一定の評価ができる。

しかし、補助金によって一時的に資金を投入しても、民間投資による循環が形成されなければ、支援終了後に元に戻る。

経済産業省の資料でも、10年間で3500億円を補助する事業が終了した後も、同規模の民間資金が創薬ベンチャーに供給される状態をつくる必要があるとされている。

政府が本当に取り組むべきなのは、建物を増やすこと以上に、次のような制度改革である。

  • 創薬企業に長期資金が流れる税制
  • ストックオプション制度の改善
  • 大学研究者の起業・兼業の柔軟化
  • 海外人材が働きやすい在留・雇用環境
  • 国際共同治験を迅速に実施できる規制
  • 革新的新薬の価値を反映する薬価制度
  • 失敗した起業家が再挑戦できる雇用文化

こうした改革は、建物の完成式典ほど分かりやすくない。

完成予想図もなく、政治的な成果として見せにくい。

しかし、創薬力を本当に左右するのは、むしろこちらである。

結論――箱物は必要だが、箱物政策にしてはいけない

アイパーク神戸は、決して無意味なプロジェクトではない。

創薬スタートアップにとって、すぐに利用できる研究設備は重要である。既存の神戸医療産業都市に立地し、湘南アイパークの運営ノウハウを利用する点にも合理性がある。

ただし、アイパーク神戸が完成しただけで、日本の創薬力が強くなるわけではない。

研究施設は、創薬エコシステムの一部にすぎない。

そこに世界水準の科学があり、リスクマネーが入り、経験ある経営者が集まり、病院で迅速に治験が行われ、成功した企業の利益が次の企業に再投資される。

この循環が生まれて初めて、建物は創薬拠点になる。

逆に、その循環がなければ、アイパーク神戸は設備の整った賃貸研究ビルで終わる可能性がある。

日本はこれまで、施設を建設することを政策のゴールにしがちだった。

今回は、建物の完成をスタート地点と考えるべきだ。

評価すべきなのは2027年の竣工時ではない。

その5年後、10年後に、アイパーク神戸から何社の世界的な創薬企業が生まれ、いくつの新薬候補が臨床試験に入り、どれだけの海外資金を呼び込んだかである。

箱を造ることはできる。難しいのは、その中で挑戦と資金と人材が回り続ける生態系を育てることだ。

アイパーク神戸が政府の創薬強化策を象徴する「新しい箱物」になるのか。

それとも、日本の創薬構造を変える本物のエコシステムになるのか。

問われるのは、建物の規模ではなく、完成後の運営と制度改革である。

コロナワクチンは本当に国民に必要なのか――Meiji Seikaファルマ社長発言から考える「公衆衛生」と「企業経営」

Meiji Seikaファルマの永里敏秋社長が、新型コロナワクチンの接種率低下によって中期経営計画が影響を受けていると説明し、ワクチン供給体制を維持するための官民協働の必要性を訴えた。

報道によれば、2024年度以降、コロナワクチンは全額公費による特例臨時接種から、高齢者などを対象とした定期接種へ移行した。さらに自治体への助成縮小によって、接種者の自己負担額が最大で約1万5000円に上昇し、市場が急速に縮小したという。

永里社長は、このままでは「開発費や設備投資が全くペイできない」と危機感を示している。

この発言を聞くと、素朴な疑問が生じる。

コロナワクチンは、本当に現在も国民に必要なのだろうか。

結論から言えば、コロナワクチンは今も一定の国民には明確に必要である。

しかし、パンデミック初期のように「全国民が毎年一律に接種するべきもの」と考えるのは適切ではない。今後必要なのは、年齢や基礎疾患などに応じて対象を絞る、リスクベースのワクチン政策である。

コロナワクチンの目的は「感染を完全に防ぐこと」ではない

コロナワクチンを巡る議論が混乱する最大の原因は、ワクチンの目的が明確に整理されていないことにある。

現在のコロナワクチンには、感染そのものを長期間、完全に防ぐ効果は期待できない。接種しても感染することはあり、感染予防効果は時間とともに低下する。

一方で、ワクチンの重要な役割は、感染をゼロにすることではなく、

  • 入院
  • 重症化
  • 死亡

を減らすことにある。

厚生労働省によれば、2024~25年シーズンに使用されたJN.1系統対応ワクチンについて、国内では60歳以上の入院を63.2%予防したとの報告がある。海外でも、成人の入院を45~68%程度予防したとする研究結果が報告されている。

つまり、「接種しても感染するから意味がない」という主張は、ワクチンの評価軸を感染予防だけに限定している。

高齢者や基礎疾患を持つ人にとっては、感染したときに入院する確率を下げられるだけでも、十分に大きな意味がある。

誰にとって必要性が高いのか

現在の日本では、新型コロナワクチンの定期接種対象は、原則として次の人に絞られている。

  • 65歳以上
  • 60~64歳で、心臓、腎臓、呼吸器などに一定の障害がある人

全額公費による全国民向けの特例臨時接種は、2024年3月末で終了した。2024年10月以降は、高齢者などを対象とした定期接種に移行している。

これは、国が「全国民に一律に必要」と考えているのではなく、重症化リスクが高い層に公費を重点投入する方針に変えたことを意味する。

世界保健機関も、高齢者、重い基礎疾患がある人、免疫不全者などの高優先群については、定期的な再接種を重視している。

一方、健康な子どもや若年者などの低優先群については、各国の政策や医療資源に応じて判断するとしており、すべての人への反復接種を一律に推奨しているわけではない。

したがって、現在の科学的に妥当な考え方は、

「コロナワクチンは国民全員に同じ程度必要なのではなく、重症化リスクが高い人ほど必要性が高い」

というものになる。

50歳前後の健康な人にも必要なのか

健康な若年者や中年者については、判断はより難しい。

過去にワクチンを複数回接種し、さらに自然感染も経験している人が多いため、社会全体として一定の免疫が形成されている。また、若く健康な人はもともと重症化する絶対リスクが低い。

そのため、接種による入院予防効果が存在するとしても、個人が得られる利益の絶対量は、高齢者ほど大きくない。

例えば、もともとの入院確率が10%の人について、ワクチンが入院リスクを半分にすれば、入院確率は5%に下がる。絶対リスクは5ポイント低下する。

しかし、もともとの入院確率が0.1%の人について半分になっても、0.05%になるだけである。

同じ「50%低下」でも、本人にとっての意味は大きく異なる。

したがって、健康な若年者や中年者では、

  • 年齢
  • 基礎疾患
  • 過去の感染歴
  • 最終接種からの期間
  • 家族に高齢者や免疫不全者がいるか
  • 接客業や医療職など感染機会が多いか
  • ワクチン接種後に強い副反応があったか

を踏まえた個別判断が妥当である。

「全員が必ず毎年接種すべき」とも、「若い人には一切必要ない」とも言い切れない。

ワクチンには副反応もある

ワクチンの必要性を論じる際には、利益だけでなくリスクも正面から扱う必要がある。

発熱、倦怠感、接種部位の痛みなどは比較的よくみられる。頻度は低いものの、心筋炎や心膜炎などの重大な副反応も知られており、添付文書でも注意喚起されている。厚生労働省は副反応疑い報告を継続的に審査している。

また、日本には予防接種健康被害救済制度がある。

これは、厳密な医学的因果関係が完全に証明された場合だけでなく、「予防接種によって起きたことを否定できない」場合も救済対象とする制度である。このため、救済制度上の認定件数を、そのまま科学的に因果関係が確定した副反応件数とみなすことはできない。

それでも、実際に接種後の健康被害を訴える人が存在する以上、国や企業はリスクを過小評価してはならない。

「安全だから黙って接種すべき」という説明では、国民の信頼は戻らない。

必要なのは、

  • 期待できる効果
  • 効果が持続する期間
  • 年齢別の利益
  • 副反応の種類と頻度
  • 接種しなかった場合のリスク

を、年齢や健康状態別に示すことである。

接種率低下は、国民が無知だからではない

企業や行政は、接種率低下を「ワクチンへの理解不足」や「誤情報の拡散」で説明しがちである。

しかし、現在の接種率低下には、それ以外にも合理的な理由がある。

第一に、コロナに対する国民の危機認識が低下した。

第二に、接種しても感染する経験が広がり、ワクチンに対する期待値が下がった。

第三に、無料だったものが1万円前後の自己負担になれば、費用対効果を考える人が増える。

第四に、発熱や倦怠感によって仕事や日常生活に支障が出る人もいる。

接種率の低下は、必ずしも国民が非科学的になったことを意味しない。個人が自分の重症化リスクと接種費用、副反応を比較した結果でもある。

むしろ、自己負担額が1万5000円に達するのであれば、健康な若年者の多くが接種を見送ることは、ある程度予測可能である。

Meiji Seikaファルマの主張は正しいのか

永里社長が指摘する最大の問題は、接種率そのものよりも、国内のワクチン供給基盤をどう維持するかという点にある。

ワクチン事業には、

  • 研究開発
  • 製造設備
  • 品質管理
  • 原材料の確保
  • 製造人材の維持
  • 変異株への対応
  • 緊急時の増産体制

など、多額の固定費が必要になる。

感染症が流行していない時期にも設備と人材を維持しなければ、次のパンデミックが起きたときに、すぐにワクチンを供給できない。

これは市場原理だけでは解決しにくい。

平時には需要が少なく赤字になるが、有事には不可欠になるからである。消防署や自衛隊、備蓄医薬品と似た性質を持つ。

したがって、永里社長の言う「官民協働」には一定の合理性がある。

ただし、それは「企業の中期経営計画を達成させるために、国民の接種を増やす」という意味であってはならない。

国が支援すべきなのは、販売数量ではなく、

  • 緊急時の生産能力
  • 国内製造設備の維持
  • 研究開発基盤
  • 原材料の国内確保
  • 新興感染症への迅速な対応能力

である。

接種者数に応じて企業が利益を得る仕組みに偏ると、企業には接種対象を広げたいというインセンティブが生じる。

一方、生産設備や人材の維持に対して国が対価を支払うのであれば、国民に不要な接種を促さずに、国家として必要な供給能力を確保できる。

「ワクチンを買う」のではなく「供給能力を買う」

今後の官民協働で重要なのは、ワクチンそのものを大量購入することではなく、危機対応能力を維持することである。

例えば国は、企業との間で次のような契約を結ぶことが考えられる。

  • 年間一定量を短期間で生産できる能力への維持費
  • 新たな変異株が出た場合の開発期間に応じた報酬
  • 国内原薬・製剤設備の維持に対する補助
  • パンデミック発生時の優先供給契約
  • 平時には他のワクチンも製造できる設備への投資

この方法であれば、実際の接種率が低くても製造基盤を維持できる。

企業側も「何人に接種されたか」だけに経営を左右されにくくなり、国民側も企業経営のために接種を勧められているという不信感を持ちにくい。

Meiji Seikaファルマには利益相反の説明が必要

Meiji Seikaファルマは、レプリコンワクチン「コスタイベ」を扱っている。感染症は同社の重点領域であり、ワクチン市場の拡大は同社の売上に直結する。

したがって、同社が接種率低下への危機感を訴える際には、二つの主張を分ける必要がある。

一つは、公衆衛生上、高齢者などの接種率が低すぎるという主張。

もう一つは、ワクチン事業の採算が悪化しているという経営上の主張である。

この二つは関連するが、同じものではない。

企業が「国民の健康のため」と言いながら、実際には自社の投資回収を求めているように見えれば、かえってワクチンへの不信感を強める。

Meiji Seikaファルマは、

  • どの年齢層に接種が必要と考えているのか
  • その根拠となる重症化予防データは何か
  • 何人が接種すれば事業を維持できるのか
  • 国にどのような支援を求めているのか
  • 接種量に依存しない支援方法は可能なのか

を具体的に示すべきである。

国民全員への接種推進に戻るべきではない

接種率が低下しているからといって、パンデミック期のような全国民向けの接種キャンペーンに戻るべきではない。

現在のコロナの疾病負担、既存免疫、医療提供体制を考えれば、限られた財源を重症化リスクの低い人まで一律に投入する合理性は乏しい。

公費支援を優先すべきなのは、

  • 高齢者
  • 免疫不全者
  • 重い基礎疾患を持つ人
  • 高リスク患者と接する医療・介護従事者
  • 集団感染による被害が大きい施設の入所者

などである。

健康な若年者や中年者については、任意接種として選択肢を残しながら、個別に判断する制度が妥当だろう。

自己負担額は見直す余地がある

一方、高齢者など本来接種の利益が大きい人まで、費用を理由に接種を控えているのであれば問題である。

最大1万5000円という負担額は、年金生活者にとって軽くない。

公衆衛生上の必要性が高い層に対しては、自治体ごとの財政力に左右されず、全国的に低い自己負担で接種できる仕組みを検討するべきである。

ただし、企業の設定価格をそのまま公費で補填するのではなく、

  • ワクチン価格の妥当性
  • 開発費と製造原価
  • 海外価格との比較
  • 国の研究開発支援額
  • 企業側の利益率

も検証する必要がある。

官民協働とは、国が企業の損失を無条件で穴埋めすることではない。

結論:必要だが、全員に一律ではない

コロナワクチンは現在も必要である。

特に高齢者や基礎疾患を持つ人にとっては、入院や重症化を減らす手段として一定の価値がある。

しかし、「国民に必要か」という問いを全国民一律で考える時代は終わった。

今後の政策は、

高リスク層には積極的に提供し、低リスク層には個別判断を認め、国内の製造基盤は接種数量とは別の仕組みで維持する

という三つの柱で設計するべきである。

Meiji Seikaファルマの問題提起は、国内ワクチン産業の維持という点では重要である。

一方で、企業の中期経営計画を守ることと、国民に医学的に必要な接種を提供することは区別しなければならない。

ワクチン政策の目的は、製薬会社の売上を支えることではない。

国民の健康被害を最小限にしながら、次の感染症危機に備えることである。

その目的を明確にした官民協働でなければ、国民の理解も信頼も得られないだろう。

丸紅は本当に「製薬会社」になれるのか――丸紅ファーマの売上高1000億円構想を読み解く

丸紅ファーマシューティカルズの西中重行社長が、2035年度に売上高1000億円以上を目指す考えを示したという。

そのためには「将来の成長ドライバーを可及的速やかに確保する必要がある」としている。

この発言だけを読むと、少し不思議に感じる。

2035年度までまだ時間があるにもかかわらず、なぜ今すぐ成長源を確保しなければならないのか。そもそも丸紅は、医薬品事業で何をしようとしているのか。

結論から言えば、丸紅には医薬品事業の戦略がある。ただし、それは新薬を研究開発する製薬会社になる戦略ではない。各地域の医薬品販売会社を束ね、製薬企業に代わって新興国・成長市場への進出を支援する「グローバル医薬品販売プラットフォーム」をつくる戦略である。

一方で、1000億円という売上高目標を持続的な成長につなげるためには、単なる販売会社の買収だけでは不十分だ。今後は「何を売るか」「誰から製品を調達するか」という製品ポートフォリオ戦略が問われる。

丸紅ファーマは、住友ファーマのアジア事業から生まれた

丸紅ファーマシューティカルズは、丸紅が住友ファーマの中国・東南アジアにおける医薬品販売事業を承継するために設立した会社である。

丸紅は新会社の株式60%を約450億円で取得した。住友ファーマが持つ残り40%についても、丸紅は2029年以降に約270億円で取得できるオプションを持っている。承継対象となったアジア事業の2025年3月期の売上収益は458億円、コアセグメント利益は231億円とされていた。

つまり、丸紅ファーマはゼロから医薬品販売を始めた会社ではない。

住友ファーマが中国や東南アジアで長年築いてきた、

  • 薬事承認のノウハウ
  • 医師や医療機関との関係
  • 営業・マーケティング組織
  • 輸入・物流・品質管理体制
  • 現地法人と人材

を、まとまった形で取得した会社である。

設立時点で連結従業員数は約700人に達しており、中国には医薬品の製造会社、輸入販売会社、物流機能を持つ子会社がある。シンガポール法人を中心に東南アジアでも医薬品の輸入、仕入れ、販売を行っている。

この点が重要だ。

医薬品事業では、商品を海外から仕入れてくれば翌日から販売できるわけではない。国ごとに薬事規制、価格制度、品質管理、販売資格が異なる。医薬品販売の本当の参入障壁は、倉庫や営業員の数ではなく、各国で築いた規制対応能力と医療関係者からの信用にある。

丸紅は、その時間を買収によって一気に手に入れた。

丸紅の戦略は「創薬」ではなく「市場アクセス」

一般的な製薬会社の成長戦略は、新薬を研究開発して特許を取得し、高い利益率を得ることである。

しかし、丸紅は創薬を主戦場にしようとしているわけではない。丸紅自身も、住友ファーマのアジア事業取得に際して「創薬を除く医薬品領域」で事業を拡大すると説明している。

丸紅が狙っているのは、医薬品の「市場アクセス」である。

製薬企業が自社製品を外国で販売するためには、現地法人の設立、薬事承認、価格交渉、物流網、営業組織、医薬品安全性監視など、膨大な機能が必要になる。

市場規模が十分に大きい米国や中国なら、自社販売網を整備する合理性がある。しかし、中東、アフリカ、東南アジアの個々の国では、市場規模が小さかったり、制度が複雑だったりするため、製薬会社が一国ずつ自前の組織を持つのは効率が悪い。

そこで丸紅が、

「複数国への参入を一括して引き受けます」

「薬事承認から輸入、物流、営業、安全性管理まで対応します」

というサービスを提供する。

これは医薬品版の総合商社というより、各国の規制対応能力を備えた専門商社兼販売受託会社に近い。

アジア、中東、アフリカをつなぐ販売網

丸紅の医薬品戦略は、今回突然始まったものではない。

2018年には中国で医薬品流通事業に参入し、2022年には中東8カ国で事業を展開するLunatusに出資した。さらに2025年には、アフリカの大手医薬品販売会社Phillips Healthcare Corporationへの出資を完了している。

Phillips Pharmaは、100社を超える製薬企業の製品を扱い、薬事申請、販売・マーケティング、物流、医療機器のアフターサービスまで提供している。

これらを合わせると、丸紅の医薬品販売プラットフォームは、アジア、中東、アフリカの合計26カ国・地域に広がっている。アジア9カ国・地域、中東8カ国、アフリカ9カ国という構成である。

したがって、丸紅の戦略はかなり明確だ。

成長率の高い新興国市場で地域販売会社を獲得し、それらを横につなぎ、複数地域を一括してカバーできる医薬品販売網を構築する。

これは丸紅の中期経営戦略が掲げる「成長領域×高付加価値×拡張性」を持つ戦略プラットフォーム型事業という考え方にも合致している。

なぜ今、「成長ドライバーの確保」が必要なのか

もっとも、販売網を持つだけでは売上高は増えない。

医薬品販売会社の売上高は、基本的に次の式で決まる。

対象国数 × 取扱製品数 × 製品当たり売上高

丸紅は既に一定の地域基盤を確保した。次に必要になるのが、販売網に流す製品である。

住友ファーマから引き継いだ既存製品は、当面の売上高と利益を生み出す。しかし、医薬品には特許切れ、後発医薬品との競争、薬価引き下げ、治療ガイドラインの変化がある。現在の製品だけで2035年度まで成長し続けることは難しい。

しかも、新しい医薬品を導入してから実際に売上高へ寄与するまでには時間がかかる。

導入候補の探索、製薬会社との契約交渉、各国での臨床データ確認、薬事申請、価格収載、発売準備を考えれば、製品取得から本格販売まで数年を要することも珍しくない。

したがって、西中社長が「可及的速やかに成長ドライバーを確保する必要がある」と述べるのは合理的である。

2035年度の目標だから2030年代に製品を探せばよいのではない。2030年代に売上高をつくる製品は、2020年代後半に仕込んでおかなければならない。

成長源の候補は三つある

丸紅ファーマの成長ドライバーには、大きく三つの方向が考えられる。

1.日本や欧米の製薬会社から販売権を取得する

最も自然なのは、自社販売網を持たない製薬企業から、中国、東南アジア、中東、アフリカにおける販売権を取得することである。

特に中堅製薬会社やバイオベンチャーにとって、26カ国・地域で個別に提携先を探すのは負担が大きい。

丸紅が複数地域を一括して担当できれば、製薬企業側にもメリットがある。

対象として考えられるのは、

  • 希少疾患治療薬
  • がん支持療法
  • 感染症治療薬
  • 糖尿病・循環器疾患などの慢性疾患薬
  • 女性医療
  • 診断薬
  • 医療機器と組み合わせた製品

などだろう。

ただし、単に「日本で余っている古い薬を新興国に売る」というモデルでは、長期的な成長性は限定される。現地の疾病構造、所得水準、償還制度に合う製品を選ぶ能力が必要になる。

2.既存薬を新しい国へ横展開する

丸紅の販売地域がアジア、中東、アフリカに広がったことで、一つの地域で扱っている製品を別の地域に導入できる可能性がある。

例えば、東南アジアで販売実績のある製品を中東へ、中東で扱う欧州製品をアフリカへ展開する。

このクロスセルが成功すれば、新たな企業を買収しなくても既存ネットワークから売上高を増やせる。

むしろ、丸紅の戦略が本当にプラットフォーム型と呼べるかどうかは、この横展開が実現できるかで決まる。

各地域の販売会社が独立して動くだけなら、単なる企業の寄せ集めである。

製品情報、薬事ノウハウ、製薬企業との関係を地域間で共有し、一つの契約から複数国で売上高を生み出せるようになって初めて、プラットフォームとしての価値が生まれる。

3.M&Aで製品や販売会社を追加する

もう一つはM&Aである。

丸紅は、販売会社だけでなく、特定の製品権利を持つ製薬会社や、地域に強い医薬品企業を取得する可能性がある。

丸紅ファーマ単体で2035年度に売上高1000億円を目指すなら、現在のアジア事業を有機的に成長させるだけでなく、追加の事業取得が必要になる可能性が高い。

特に候補となりそうなのは、

  • 東南アジアのローカル製薬企業
  • ジェネリック医薬品メーカー
  • 特定診療領域に強い販売会社
  • 医薬品の輸入・薬事機能を持つ企業
  • 地域ブランドを持つOTC・コンシューマーヘルス企業

である。

ただし、売上高を買収で積み上げるだけでは、企業価値は必ずしも高まらない。買収価格、事業の利益率、製品寿命、運転資本、規制リスクを厳しく見る必要がある。

丸紅ならではの強みは何か

丸紅が製薬事業を行うことに違和感を持つ人もいるだろう。

しかし、創薬ではなく新興国での医薬品流通を主戦場とするなら、総合商社との相性は悪くない。

第一に、丸紅は国際的な事業開発とM&Aに慣れている。現地株主との交渉、資金調達、ガバナンス構築、事業再編は商社の得意分野である。

第二に、物流、金融、保険、為替管理など、国際流通を支える機能を持つ。

第三に、アジア、中東、アフリカで、医薬品以外の事業を通じた政府や企業との関係を持っている。

第四に、製薬会社に対して「一つの国の販売代理店」ではなく、「複数地域への展開パートナー」として提案できる。

丸紅は医療サービス事業でも、フィリピンの臨床検査、不妊治療、遠隔医療などに取り組んでいる。

将来的には、医薬品販売だけでなく、検査、診断、病院、医療データを組み合わせる余地もある。

例えば、糖尿病薬を販売するだけでなく、検査サービス、患者教育、服薬支援を組み合わせる。あるいは、不妊治療クリニックのネットワークを通じて関連薬剤を提供する。

こうした事業間連携ができれば、単なる卸売り以上の付加価値をつくれる。

最大の問題は「何の会社なのか」がまだ見えにくいこと

丸紅の方向性は理解できるが、現時点では戦略に曖昧さも残る。

最大の問題は、丸紅ファーマが将来、何を競争力の中核とするのかがまだ十分に見えないことだ。

医薬品販売会社には、大きく三つのタイプがある。

一つ目は、物流量と効率を競う卸売会社。

二つ目は、特定国の営業・薬事能力を売る販売代理店。

三つ目は、自ら製品を選び、権利を取得し、複数国で育成するスペシャリティファーマである。

丸紅が目指すべきは三つ目だろう。

物流手数料を得るだけでは利益率が低く、製薬企業から契約を打ち切られるリスクもある。一方で、自ら地域販売権を取得し、承認取得と市場開発に投資すれば、より高い収益と長期的な競争力を得られる。

そのためには、単なる商社人材だけでなく、

  • メディカルアフェアーズ
  • 薬事
  • 市場アクセス
  • 事業開発
  • 安全性管理
  • 疾患領域戦略
  • 製品評価

の専門人材を厚くする必要がある。

丸紅が医薬品事業を本気で拡大するなら、M&A資金以上に重要なのは、この専門組織の構築である。

売上高1000億円は大きいのか

製薬業界全体から見れば、売上高1000億円は巨大企業と呼べる規模ではない。

大手製薬会社の売上高は数千億円から数兆円に達する。一方、新興国を中心とする医薬品販売・スペシャリティファーマとして見れば、1000億円は十分に存在感のある規模である。

注意すべきなのは、売上高の大きさだけでは企業価値を判断できないことである。

医薬品卸のように商品を仕入れて販売すれば売上高は大きくなるが、粗利益率は低くなる。反対に、独占的な販売権を持つスペシャリティ製品では、売上高が小さくても利益率は高くなる。

丸紅ファーマが目指すべき指標は、売上高1000億円だけではない。

  • 売上総利益率
  • 独占販売権を持つ製品の比率
  • 新製品売上高比率
  • 地域間で横展開した製品数
  • 一社への仕入れ依存度
  • 薬事申請の成功件数
  • 営業キャッシュフロー
  • 投下資本利益率

といった指標が重要になる。

1000億円を達成しても、低利益率の卸売事業が中心であれば、戦略的な成功とは言いにくい。

丸紅には戦略がある。ただし、まだ完成していない

丸紅に医薬品戦略はあるのか。

答えは「ある」である。

その戦略は、

  1. 成長率の高いアジア、中東、アフリカに販売拠点を持つ
  2. 現地の薬事、輸入、物流、営業機能を獲得する
  3. 製薬企業から地域販売権を取得する
  4. 同じ製品を複数地域へ横展開する
  5. 必要に応じてM&Aで製品と地域を追加する

というものだ。

これは、新薬の成功確率に賭ける創薬モデルとは異なる。複数の製品、国、製薬企業を組み合わせることでリスクを分散し、着実に事業を積み上げる商社型の医薬品戦略である。

ただし、現段階で完成しているのは「販売網」であって、「成長製品のポートフォリオ」ではない。

丸紅はアジア、中東、アフリカをカバーする道路をつくった。しかし、その道路に何を走らせるのかは、これから決めなければならない。

西中社長が「成長ドライバーの確保」を急ぐのは、そのためだろう。

今後の評価ポイントは、企業買収の件数ではない。

日本や欧米の製薬会社からどのような製品を導入するのか。既存製品を何カ国へ横展開できるのか。独自の製品選定力と市場開発力を構築できるのか。

丸紅ファーマが単なる「住友ファーマの旧アジア事業」で終わるのか、それとも新興国医薬品市場をつなぐ独自のスペシャリティファーマになるのか。

2035年度の売上高1000億円よりも、今後数年間に獲得する製品の中身の方が、同社の将来を左右する。

「低付加価値」に見える輸液へ800億円投資――大塚製薬工場が北米で狙うもの

大塚製薬工場は2026年7月10日、北米における輸液製品の製造能力を拡張すると発表した。

米ICU Medicalとの合弁会社Otsuka ICU Medicalが、テキサス州オースティンの製造拠点に約50万平方フィート、約4万6500平方メートルの新施設を建設し、既存施設も改良する。投資額は5億ドル、約808億円を超える。会社側は、北米での輸液の長期的な供給安定性を高めるとともに、DEHPを使用しない輸液容器を含む製品開発を推進すると説明している。

しかし、輸液と聞くと、生理食塩液やブドウ糖液のような、技術的な差別化が難しく、価格も高くない製品を思い浮かべる。

新薬のような高い利益率を期待しにくい製品に、なぜ大塚製薬工場は800億円もの巨額を投じるのか。

結論から言えば、今回の投資は「安価な輸液を大量に作る」という単純な増産投資ではない。

大塚製薬工場が狙っているのは、北米の医療インフラに深く入り込み、供給力、容器技術、販売網を組み合わせることで、輸液事業を長期的な参入障壁の高い事業に変えることである。

輸液は低価格でも、誰でも供給できる商品ではない

確かに、基礎輸液そのものの薬価や販売単価は高くない。

一方で、輸液事業には一般的な低価格医薬品とは異なる難しさがある。

輸液は患者の血管内に直接、かつ大量に投与される。そのため、無菌性、異物管理、容器の密封性、液の安定性などについて極めて厳格な品質管理が求められる。

さらに、輸液は液体で重く、かさばる。錠剤のように少量を航空輸送することが難しく、輸送費や倉庫費用が大きい。災害や港湾混乱が起きた際に、海外工場から短期間で大量に補充することも容易ではない。

つまり、製品単価は低くても、

  • 大規模な無菌製造設備
  • 継続的な設備保全
  • 厳しい品質保証体制
  • 大容量製品を運ぶ物流網
  • 病院への安定した供給能力

が必要になる。

このため輸液は、「製品としてはコモディティーに見えるが、供給事業としては参入障壁が高い」という特徴を持っている。

大塚製薬工場が投資しているのは、輸液の中身だけではない。製造設備、品質管理、容器、物流を含めた供給システム全体なのである。

北米では「安定供給」自体が大きな価値になった

今回の投資を理解する上で最も重要なのが、北米で相次いだ輸液不足である。

2024年9月、ハリケーン・ヘリーンによる洪水で、米Baxterのノースカロライナ州ノースコーブ工場が大きな被害を受けた。同工場は米国の輸液供給の約60%を担っていたとされ、生産停止によって全米の医療機関に深刻な影響が広がった。病院では輸液の使用制限だけでなく、一部の予定手術を延期する動きも生じた。

生理食塩液の全国的な不足は2025年8月に解消されたが、FDAは当時、ほかの一部輸液では不足が続いているとしていた。

この事例は、米国の輸液供給が少数の大型工場に依存しており、一つの拠点の停止が医療システム全体に波及することを示した。

病院にとって、輸液は高性能であること以上に、「必要な日に、必要な量が確実に届くこと」が重要である。

供給が途絶えれば、手術、救急医療、集中治療、抗がん剤治療、透析など、さまざまな医療行為が影響を受ける。単価が低いからといって、重要性が低いわけではない。

むしろ、代替が難しく、欠品した場合の社会的損失が大きいため、安定供給能力そのものが商品価値になる。

大塚製薬工場による北米投資は、この「供給の冗長性」に対する需要を取り込むものだろう。

大塚は2025年に北米事業へ本格参入したばかり

大塚製薬工場は2025年5月、ICU Medicalの輸液事業を母体とするOtsuka ICU Medicalの持分60%を取得し、同社を子会社化した。

取得時点で大塚製薬工場は、Otsuka ICU Medicalが持つ北米の生産能力、ICU Medicalの販売・流通ネットワーク、大塚製薬工場が日本で培った輸液技術を組み合わせる方針を示していた。

つまり、今回の800億円投資は突然決まった案件ではない。

2025年の出資が「北米輸液市場への参入」だったとすれば、2026年の設備投資は「北米市場で主導権を握るための第2段階」と位置づけられる。

ICU Medicalは病院向けの輸液ポンプ、輸液セット、カテーテル、コネクターなど、輸液治療に関する幅広い製品と顧客基盤を持つ。大塚製薬工場はそこに輸液製造と容器開発の技術を持ち込む。

両社の組み合わせによって、

「輸液バッグだけを販売する会社」

ではなく、

「輸液、輸液セット、ポンプ、接続機器を一体的に提供できる会社」

に近づくことができる。

輸液単体の利益率が高くなくても、周辺機器や消耗品まで含めた病院との取引全体では、収益性と顧客定着率を高められる可能性がある。

本当の付加価値は「液体」よりも「容器」にある

今回の発表で注目すべきなのが、DEHPフリー輸液容器への対応である。

DEHPは、塩化ビニルを柔らかくするために用いられてきた可塑剤である。一方、医療用具の使用時にDEHPの一部が液体へ溶出する可能性が指摘されており、日本のPMDAも過去に医療関係者や企業へ注意喚起を行っている。

米カリフォルニア州でも、DEHPは発がん性や生殖発生への影響が懸念される物質として、プロポジション65の対象となっている。

今後、北米では医療機器や容器に使用する素材について、DEHPを使用しない方向への移行が進む可能性が高い。

ここで重要なのは、輸液容器の素材を変えることが、単なる袋の変更では済まないことである。

新しい素材を採用すれば、

  • 輸液成分との相互作用
  • 保存期間中の安定性
  • ガスや水分の透過性
  • 落下や圧力に対する耐久性
  • 製造設備との適合性
  • 滅菌工程への耐性
  • 輸液セットとの接続性

などを検証し直す必要がある。

容器変更には、研究開発、製造ラインの改造、品質試験、規制当局への申請が必要になる。したがって、新しい環境・安全規制へ先行対応できる企業は、単純な価格競争から一定程度抜け出せる。

大塚製薬工場は、輸液そのものだけでなく、バッグ、ボトル、複室容器などの容器技術を長年蓄積してきた。

今回の投資は、DEHPフリー化をコスト負担として受け身で処理するのではなく、容器技術による差別化の機会に変えようとするものだろう。

基礎輸液は、より高付加価値な製品への入口になる

大塚製薬工場は、Otsuka ICU Medicalへの出資時に、まず高品質な基礎輸液を安定供給し、将来的には栄養輸液などを北米や世界へ供給する方針を示している。

ここが今回の投資を評価する上で重要な点である。

生理食塩液やブドウ糖液だけで800億円を回収しようとしているのではなく、基礎輸液を足掛かりに、より高度な製品へ展開することが想定される。

例えば、

  • 電解質輸液
  • アミノ酸輸液
  • 脂肪乳剤
  • 高カロリー輸液
  • 複室バッグ製品
  • 病院内での調製負担を減らすプレミックス製品
  • 特殊医薬品や注射剤

などである。

これらは、単純な生理食塩液よりも技術的な差別化が可能であり、相対的に高い付加価値を得やすい。

さらに、新施設について会社側は、輸液だけでなく「スペシャリティ医薬品分野」での将来のイノベーションにも対応する柔軟性を持たせるとしている。

したがって、今回の設備は単なる生理食塩液工場ではなく、将来的な製品高度化を見据えた北米の製造プラットフォームと考えるべきである。

巨額投資でも、需要予測のリスクは比較的小さい

新薬工場への投資には、開発品が承認されない、想定ほど売れない、競合品に市場を奪われるといったリスクがある。

一方、輸液は治療の基盤であり、人口、高齢化、手術件数、がん治療、在宅医療などを背景に、一定の需要が継続する。

爆発的な成長は期待しにくいものの、需要が突然消滅する可能性も低い。

また、輸液は病院の採用手続き、品質評価、輸液ポンプや輸液セットとの適合性などが関係するため、いったん取引関係を築けば、単純に最安値の商品へ切り替えられるとは限らない。

長期契約や安定供給契約を確保できれば、設備投資を長期間かけて回収できる。

これは、高成長・高利益率の事業ではないものの、巨大設備と顧客基盤を持つ企業にとっては、安定したキャッシュフローを生むインフラ型事業になり得る。

米国内生産であることにも戦略的価値がある

輸液は重量と容積が大きいため、消費地の近くで作る経済合理性が高い。

さらに米国では、医薬品不足や地政学リスクを背景に、重要医薬品の国内製造能力を強化しようとする動きが続いている。

海外から輸入した方が製造原価だけは安くても、輸送費、在庫、為替、関税、緊急時の輸入許可、供給途絶リスクまで考えれば、米国内生産の価値は大きい。

2024年の輸液不足では、FDAが緊急対応としてカナダ、中国、アイルランド、英国などの工場からの輸入を一時的に認めた。

逆に言えば、平時から米国内に十分な能力があれば、このような例外的対応に頼る必要が減る。

テキサス州での大規模増産は、大塚製薬工場を単なる外国企業ではなく、米国の医療供給網を支える国内メーカーとして位置づける効果もある。

今後、政府調達、医療機関との契約、供給安定性を重視する購買制度が強化されれば、米国内に大型製造拠点を持つことが競争上の優位性になる可能性がある。

800億円投資の最大の課題は、採算性である

もちろん、今回の投資にリスクがないわけではない。

最大の課題は、巨額の設備投資に見合う利益を確保できるかどうかである。

輸液市場では、医療機関や共同購買組織の価格交渉力が強い。安定供給が重要だからといって、メーカーが自由に価格を引き上げられるわけではない。

また、Baxterの工場が完全に復旧し、ほかの競合企業も増産すれば、市場全体が供給過剰になる可能性がある。

DEHPフリー製品も、最終的に業界標準になれば、長期的には差別化要因ではなく、参入するための最低条件になる。

加えて、新施設の立ち上げには、人材採用、規制当局の承認、製造工程の検証、歩留まりの改善などが必要である。完成しても、すぐにフル稼働できるとは限らない。

したがって、今回の投資が成功する条件は、単なる生産量の増加ではない。

基礎輸液で一定の稼働率を確保しながら、DEHPフリー容器、栄養輸液、プレミックス製剤、スペシャリティ医薬品などへ、どれだけ早く製品構成を高度化できるかが重要になる。

大塚製薬工場にとっては「本業の世界展開」である

大塚グループというと、医療用医薬品のほか、ポカリスエットやカロリーメイトを連想する人が多い。

しかし、大塚グループの出発点は輸液事業である。

大塚製薬工場は、日本の輸液市場で長年にわたり製造、容器開発、臨床栄養の技術を蓄積してきた。今回の北米投資は、全く新しい分野への多角化ではなく、自社が最も深い経験を持つ事業を世界最大級の医療市場へ展開する試みといえる。

大塚製薬工場が持つ技術と、ICU Medicalが持つ北米の工場、販売網、輸液関連機器を組み合わせる戦略には、一定の合理性がある。

特に重要なのは、大塚製薬工場が合弁会社の60%を保有し、主導権を持っていることである。ICU Medicalの開示によれば、ICU Medicalが保有する残り40%についても、取引完了から5年後以降、一定の条件で大塚側が取得できるコールオプションなどが設定されている。

将来的には大塚製薬工場が事業を完全子会社化し、北米輸液事業を自社のグローバル展開の中核に据える可能性も考えられる。

まとめ――輸液の付加価値ではなく、供給基盤の価値を買っている

輸液は、薬液だけを見れば低価格で、差別化が難しい製品に見える。

しかし、今回、大塚製薬工場が投資している対象は薬液だけではない。

投資の意味を整理すると、次のようになる。

第一に、ハリケーン被害で露呈した北米の脆弱な輸液供給網に、新たな大規模供給能力を提供する。

第二に、DEHPフリー化などの規制・安全性要求を、容器技術による差別化の機会に変える。

第三に、ICU Medicalの病院ネットワークと輸液関連機器を活用し、輸液単品ではなく、輸液治療システム全体へ事業を広げる。

第四に、基礎輸液を入口として、栄養輸液、プレミックス製品、スペシャリティ医薬品へ製品構成を高度化する。

第五に、米国内の製造拠点を持つことで、物流、地政学リスク、医薬品安全保障に対応する。

したがって、この800億円投資は、「薄利の生理食塩液を大量生産するための投資」ではない。

北米の医療インフラに不可欠な供給者としての地位を獲得し、そこから容器、臨床栄養、輸液機器、スペシャリティ医薬品へ事業を広げるための投資である。

評価のポイントは、生産能力を何袋増やしたかではなく、新工場を使って製品ミックスをどこまで高付加価値化できるかにある。

今回の投資は、大塚製薬工場が日本の輸液メーカーから、グローバルな輸液・臨床栄養プラットフォーム企業へ進めるかどうかを左右する、大きな賭けといえるだろう。

アクセリードが三菱商事と資本業務提携――創薬CROの成長に「総合商社」が必要な理由

2026年7月9日、アクセリードは三菱商事との業務提携を発表した。提携にあわせて、三菱商事はアクセリードの株式の一部を取得している。

出資比率や取得金額は公表されていないが、単なる営業協力ではなく、三菱商事が株主としてアクセリードの成長に関与する資本業務提携と見るべきだろう。両社は、三菱商事の事業基盤、グローバルネットワーク、事業開発力を活用し、アクセリードの創薬支援事業の拡大と、新たな事業機会の創出を目指すとしている。

一見すると、医薬品メーカーでも大手CROでもない三菱商事が、なぜ創薬支援企業に出資するのか分かりにくい。しかし、両社の事業を詳しく見ると、今回の提携はかなり合理的な組み合わせである。

アクセリードは「研究を代行する会社」以上の存在

アクセリードの中核企業であるAxcelead Drug Discovery Partnersは、2017年に武田薬品工業の創薬研究基盤の一部を引き継いで事業を開始した。

同社は、スクリーニング、医薬品化学、薬効薬理、薬物動態、安全性評価など、創薬の初期段階から前臨床研究までを幅広く支援する、日本では珍しい統合型の創薬ソリューションプロバイダーである。単独の試験を受託するだけでなく、顧客の創薬プロジェクト全体を見ながら研究戦略を提案できる点に特徴がある。

アクセリードは、武田薬品から継承した120万以上の化合物ライブラリーや長年蓄積された創薬データ、研究設備、製薬企業で創薬を経験した研究者を保有する。2024年には帝人と合弁でAxcelead Tokyo West Partnersを設立し、帝人ファーマの創薬研究機能の一部も取り込んだ。現在は湘南と東京・日野の2拠点を軸に、創薬支援能力を拡大している。

したがってアクセリードは、一般的な試験受託型CROというより、複数の製薬会社が保有していた研究基盤を集約し、製薬企業、バイオベンチャー、大学などに開放する「共同利用型の創薬インフラ」を目指していると考えた方が分かりやすい。

アクセリードに足りなかったもの

アクセリードには、創薬研究の技術、人材、設備がある。一方で、研究能力が高いことと、それを世界的な事業に成長させることは別問題である。

今後、アクセリードが成長するためには、国内製薬企業から研究業務を受託するだけでは不十分だ。海外製薬企業やバイオベンチャーから案件を獲得し、場合によっては顧客と共同で研究テーマを組成し、研究成果を知的財産や創薬プログラムとして事業化する必要がある。

さらに、創薬支援事業は設備や研究者を抱える固定費型のビジネスでもある。稼働率を高めるためには、継続的に世界中から案件を呼び込まなければならない。

ここで必要になるのは、必ずしも創薬研究そのものの能力ではない。

必要なのは、

・海外企業や投資家へのアクセス ・案件を発掘する営業ネットワーク ・複数企業を組み合わせる事業開発力 ・新会社や共同事業を組成する投資能力 ・各国の市場、規制、商流に関する知識

である。

これらは、まさに総合商社が強みとしてきた領域だ。

「三菱商事は医薬品に強くない」は半分正しく、半分間違い

三菱商事に対して、資源、エネルギー、食品、自動車などのイメージを持つ人は多い。確かに、三菱商事は医薬品を自ら研究開発し、世界で販売する製薬会社ではない。

しかし、三菱商事は現在、S.L.C.(Smart-Life Creation)グループの中にヘルスケア本部を持ち、医療、介護、予防、医薬品、農薬の分野で事業を展開している。同社が公表している事業領域には、マネージドケア、医療機器・医療材料販売、介護、医薬・農薬の開発・製造・販売、医療機関向けソリューションなどが含まれる。

医薬品分野では、過去数十年にわたるグローバルトレーディングに加え、各種モダリティーのCDMOなど、製薬企業を支援するファーマサービスへの投資や事業開発を行ってきたと説明している。

つまり、三菱商事は「新薬を自社開発する企業」ではないが、「医薬品・医療を支える周辺産業に投資し、事業を組み立てる企業」ではある。

今回の提携を理解するうえでは、この違いが重要である。

最大の接点は湘南アイパーク

両社の関係を考えるうえで見逃せないのが、湘南ヘルスイノベーションパーク、通称「湘南アイパーク」である。

アクセリードの主要な研究拠点は湘南アイパーク内にある。一方、三菱商事は湘南アイパークの運営会社であるアイパークインスティチュートに19.5%を出資している。ほかの主要株主は、産業ファンド投資法人と武田薬品である。

湘南アイパークには、製薬企業、バイオベンチャー、AI企業、大学、ベンチャーキャピタルなど、多様な組織が集まっている。三菱商事は単に研究施設の不動産に投資しているのではなく、企業や技術、人材、資金をつなぐライフサイエンス・エコシステムの構築に関与している。

アクセリードは、そのエコシステムの中で実際に創薬実験を動かすことのできる重要な研究基盤である。

三菱商事から見ると、湘南アイパークに有望なバイオベンチャーを集めるだけでは、新薬候補は生まれない。ベンチャーが持つ研究シーズを評価し、化合物を探索し、薬効や安全性を検証し、製薬企業に導出できる段階まで引き上げる実働部隊が必要になる。

アクセリードは、その役割を担える企業である。

今回の出資は、三菱商事が湘南アイパークという「場所」への関与から、そこで創薬を実行する「機能」へと一歩踏み込んだものと見ることができる。

三菱商事がアクセリードにもたらすもの

第一は、海外案件の獲得である。

創薬支援市場では、米国や欧州の製薬企業、バイオベンチャーが重要な顧客となる。アクセリードには創薬研究能力があっても、海外顧客との接点や営業網を単独で短期間に構築するのは容易ではない。三菱商事の海外拠点や取引先ネットワークを使えば、アクセリードの研究サービスを世界の顧客に販売しやすくなる。

第二は、新しい事業モデルの構築である。

従来型のCROは、顧客から受託料を受け取って研究を行う。しかし将来的には、研究費の一部を低く抑える代わりに、成功時のマイルストーン収入やロイヤルティーを受け取る契約、複数企業による共同創薬、創薬ベンチャーの共同設立なども考えられる。

このような案件では、科学だけでなく、資金調達、知的財産、契約、海外展開、提携先の選定が重要になる。三菱商事の事業開発力が活きる部分である。

第三は、創薬バリューチェーンの拡張である。

アクセリードの主力は創薬初期から前臨床段階である。三菱商事が関与するCDMO、医薬品素材、医療機関、海外ヘルスケア事業などと接続できれば、創薬研究だけでなく、製造、臨床開発支援、事業化までを含む、より広いファーマサービス事業に発展する可能性がある。

ただし、現時点では具体的な共同事業は発表されていない。この部分は今後の可能性であり、提携発表だけから確定的に評価することはできない。

三菱商事側の狙い

三菱商事にとっても、アクセリードへの出資には大きな意味がある。

ヘルスケアは、景気変動の影響を比較的受けにくく、中長期的な需要拡大が期待される。一方、医薬品事業に新規参入するために、自ら製薬会社を立ち上げるのはリスクが大きい。

そこで、三菱商事は新薬そのものの成否に賭けるのではなく、多くの製薬企業やバイオベンチャーに共通して必要とされる研究・製造・流通・医療サービスなどの基盤を押さえようとしているように見える。

これは、ゴールドラッシュで金鉱を掘る企業に投資するのではなく、複数の採掘会社に道具やインフラを提供するビジネスに近い。

アクセリードは、特定の新薬候補だけを持つバイオベンチャーではない。多数の創薬プロジェクトを支援できるプラットフォームである。そのため三菱商事は、単一の新薬開発リスクを負うのではなく、創薬活動全体の拡大から収益機会を得られる。

総合商社の投資対象としては、むしろ製薬会社そのものよりも相性がよい可能性がある。

今回の提携をどう評価するか

今回の提携は、アクセリードが「優れた国内創薬CRO」から「グローバルな創薬プラットフォーマー」へ進むための布石と評価できる。

アクセリードには武田薬品や帝人から継承した研究資産がある。三菱商事には、海外ネットワーク、投資能力、事業開発力、湘南アイパークを含むヘルスケア事業基盤がある。

両社の役割分担は明確だ。

アクセリードが科学と研究を担い、三菱商事が顧客、資金、企業、地域をつなぐ。

もっとも、業務提携だけで自動的に海外案件が増えるわけではない。総合商社のネットワークを、具体的な創薬案件や売上に変換できるかが今後の焦点となる。また、三菱商事の取得株式比率や出資額、経営への関与の程度も公表されていないため、現段階では本格的な共同経営に踏み込んだとまでは言えない。

今後注目すべきなのは、海外製薬企業・バイオベンチャーからの受注拡大に加え、共同創薬ファンド、創薬ベンチャーの設立、海外CRO・CDMOの買収、湘南アイパーク企業への創薬支援パッケージ提供など、具体的な共同事業が出てくるかどうかである。

今回のニュースの本質は、三菱商事が突然「新薬開発を始めた」ことではない。

三菱商事が、創薬エコシステムを支えるインフラ事業の一つとして、アクセリードの創薬プラットフォームに価値を見いだしたことにある。

日本の製薬企業が研究拠点や人材を縮小する一方、それらの機能を集約し、多数の企業が共同利用できる創薬基盤に変えていく。そこに総合商社の資本とネットワークを組み合わせる今回の取り組みは、日本の創薬産業の構造変化を象徴する提携といえるだろう。