製薬ビジネス戦略ラボ

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住友ファーマの会計問題を指摘した「Gotham City Research」とは何者なのか

2026年8月、住友ファーマの会計処理について、米国のGotham City Research(ゴッサム・シティ・リサーチ)が問題を指摘するレポートを公表した。

レポートでは、住友ファーマの2025年度の財務諸表について「1,160億~1,650億円規模の誤りがある」と主張しており、特にスイス子会社をめぐる配当・現物分配や債権の処理を問題視している。Gotham自身は住友ファーマ株のショートポジションを持っていることも開示している。

では、このGotham City Researchとは、そもそも何をしている会社なのだろうか。

結論から言えば、一般的な証券会社のリサーチ部門や会計監査法人ではない。

企業の財務内容などを調査し、問題があると判断した企業の株式を空売りしたうえで、その問題点をレポートとして公表する「アクティビスト・ショートセラー(空売り投資家)」である。

この点を理解すると、今回の住友ファーマに対するレポートの位置づけもかなり分かりやすくなる。

Gotham City Researchとは

Gotham City Research LLCは、Daniel Yu(ダニエル・ユー)氏が設立した米国の投資調査会社である。Reutersも同社を「short seller(空売り投資家)」として紹介している。

同社自身は事業について、

「due diligence-based investing(デューデリジェンスに基づく投資)」

を行う会社だと説明している。また、調査対象企業についてロングまたはショートのポジションを持つ場合があることも明記している。

実際には、Gothamの名前が知られるようになったのは、企業の会計や関連当事者取引、債務、キャッシュフローなどを詳細に分析し、

「この会社の利益は実態より大きく見えているのではないか」

「実際の負債はもっと多いのではないか」

「関連会社との取引が適切に開示されていないのではないか」

といった問題を指摘するレポートを公開する活動によるものだ。

最近では、米Carvanaについても関連当事者取引や利益の過大計上を主張するレポートを発表している。

「企業を調査する会社」というだけではない

Gothamを理解するうえで最も重要なのは、

Gothamは第三者的な調査機関ではなく、投資家でもある

ということである。

一般的な会計監査法人であれば企業から監査報酬を受け取り、財務諸表が会計基準に従って適正に作成されているかを確認する。

一方、Gothamの場合はまったく違う。

例えば、

  1. ある企業の株価が実態より高いと考える
  2. その企業の株式を空売りする
  3. 財務諸表、登記、子会社資料、取引関係などを詳しく調査する
  4. 問題点をまとめたレポートを公表する
  5. 市場がその問題を認識して株価が下がれば利益を得る

という構造になっている。

Gotham自身も、自社ウェブサイト上で、レポート公表時点では対象企業の株価が下落すれば利益を得る可能性があると想定すべきだと明記している。また、その後ポジションを変更しても市場に通知する義務を負わないとしている。

したがって、

「企業の不正を告発するジャーナリスト」

と考えるのも正確ではないし、

「独立した会計専門家」

と考えるのも正確ではない。

むしろ、

「株価が下がると考えて投資し、その投資仮説を詳細な調査レポートとして市場に提示する投資家」

と考えるのが最も近い。

なぜそんなことをするのか

理由は非常にシンプルである。

株価が下がれば儲かるからだ。

空売りでは、株式を借りて1000円で売り、その後600円に下落したところで買い戻せば、単純化すれば400円の利益になる。

そのためGothamにとって重要なのは、

「市場が間違って評価している企業」

を見つけることである。

例えば市場では、

営業利益1000億円 有利子負債3000億円

と認識されている会社があったとする。

しかしGothamが分析して、

実質的な利益は500億円程度しかない 実質的な負債は5000億円ある

と判断したとする。

もしGothamの分析が正しければ、その会社は市場が考えているよりはるかに割高かもしれない。

そこで株を空売りしてからレポートを公表するのである。

住友ファーマについてGothamは何を主張しているのか

今回Gothamが特に注目したのが、住友ファーマのスイス子会社Sumitomo Pharma Switzerland(SMPS)をめぐる取引である。

Gothamは、住友ファーマが2026年3月期について開示した数字と、親会社である住友化学の財務諸表注記などを比較し、数字の整合性に疑問を呈している。

報道によれば、Gothamが注目している数字の一つが、

480億円

約1,640億円

である。

住友ファーマはスイス子会社から約480億円の配当を受け取ったとしている一方、親会社の財務諸表注記では約1,640億円の「現物分配(distribution-in-kind)」に関する記載があり、Gothamはこの差額について説明が十分ではないと主張している。

そこからGothamは、

住友ファーマの2025年度財務諸表には1,160億~1,650億円程度の誤りが存在する可能性がある

と主張している。さらに債権などを利用することで住友ファーマおよび住友化学の利益が押し上げられているとの見方も示している。

ただし、ここは非常に重要である。

これは現時点では、

Gotham City Researchの「主張」

であって、

監査法人や金融当局が「住友ファーマの決算が粉飾だった」と認定したという話ではない。

住友ファーマ側は財務諸表を修正する予定はなく、財務報告に誤りがあるとの指摘も確認していないとしている。

したがって、

「Gothamが不正会計を発見した」

と断定するのは現段階では適切ではなく、

「Gothamが会計処理について重大な疑問を提示した」

くらいに考えるべきだろう。

Gothamは過去にも製薬会社をターゲットにしている

今回の住友ファーマは、Gothamが製薬会社の会計問題を指摘した初めてのケースではない。

非常に有名なのが、スペインの血液製剤大手Grifols(グリフォルス)である。

2024年1月、GothamはGrifolsについて、

  • 利益が実態以上に大きく見えている
  • 負債が実態より小さく見えている
  • 関連当事者との取引に問題がある

などとするレポートを発表した。

発表後Grifolsの株価は急落し、一時は時価総額の約3分の1を失った。

Gothamは過去にもCriteo、AAC Technologies、SES-imagotagなど複数企業を対象にレポートを出しており、スペインの通信会社Let's GowexはGothamによる問題提起の後、最終的に破綻している。

そのためGothamは市場では、

「企業会計の問題を見つける能力のあるショートセラー」

として一定の注目を集めている。

ただしGothamの主張が常に正しいわけではない

ここも非常に重要である。

Gothamの過去の実績だけを見て、

「Gothamが言っているのだから住友ファーマも問題だ」

と考えるのは危険である。

Grifolsのケースでは、会社側がGothamの主張を強く否定し、訴訟にまで発展している。

スペイン当局もGrifolsだけでなくGotham側の行為を調査しており、Gothamの創業者Daniel Yu氏は、市場に誤解を与える情報を流して株価に影響を与えた疑いをめぐってスペインの裁判所から事情を聴かれる対象となった。Gotham側は自らの調査の正当性を主張している。

またGrifolsが米国で起こした訴訟については、2025年に米連邦裁判所が一部の名誉毀損の主張について審理を継続できると判断している。

つまりGothamは、

「不正を暴く正義の調査会社」

でもなければ、

「株価を下げるためだけにデタラメを書く会社」

とも単純には言えない。

非常に強い経済的インセンティブを持ちながら企業を徹底的に調査する投資家

という理解が適切だと思う。

ショートセラーのレポートはどう読むべきか

個人的には、今回の住友ファーマの問題を見るうえでは、

Gothamが正しいか、住友ファーマが正しいか

という二択にする必要はないと思う。

ショートセラーのレポートを見るときには、

「Gothamが空売りしているから信用できない」

と切り捨てるのも、

「Gothamには実績があるから正しい」

と考えるのも極端である。

見るべきなのは、

Gothamが示した個々の数字や取引が、実際の開示資料と整合しているか

である。

今回なら、

480億円と約1,640億円は何を意味するのか。

現物分配とは具体的に何だったのか。

連結財務諸表と単体財務諸表のどこに計上されるべきなのか。

その取引によって住友ファーマや住友化学の利益は本当に過大になっているのか。

ここを一つずつ確認する必要がある。

Gothamのレポートが市場で注目される理由

Gothamのようなショートセラーの存在には興味深い側面もある。

証券会社のアナリストには企業との関係があり、極端にネガティブなレポートを出しにくい場合がある。

監査法人も企業から監査報酬を受け取っている。

一方、ショートセラーの場合、

企業に問題があるほど利益になる。

したがって、

「誰も気づいていない問題を見つける」

ことに非常に強い経済的インセンティブがある。

だからこそ、ときには市場や監査法人が見逃した問題を発見することがある。

その反面、

株価が下落するほど本人が儲かる

という明確な利益相反もある。

この二面性こそが、Gotham City Researchという存在を理解するうえで最も重要だろう。

まとめ

Gotham City Researchは、単なる「企業調査会社」ではない。

その実態は、

企業を詳細に調査し、問題があると判断すれば株式を空売りし、その後に調査レポートを公開するアクティビスト・ショートセラー

である。

今回の住友ファーマについても、Gothamはショートポジションを持ったうえで会計処理への疑問を提示している。

したがってGothamには、

「住友ファーマの問題を発見する」

インセンティブがあると同時に、

「住友ファーマの株価が下がる」

ことによって利益を得るインセンティブもある。

今回の件で重要なのはGothamという会社を信用するかどうかではない。

最終的には、

Gothamが指摘した480億円、1,640億円、1,160~1,650億円という数字が、住友ファーマ・住友化学の財務諸表の中でどのようにつながっているのか

を検証することである。

個人的には、今回のレポートは「不正会計が発覚した」と評価する段階ではないものの、住友ファーマ側が会計処理をより具体的に説明する必要性を生じさせたレポートとして見るのが妥当ではないかと思う。

今後、監査法人、証券取引所、金融当局などがどのような判断をするのかも含め、非常に興味深いケースになりそうである。

製薬会社に「より良い薬を早く出す義務」はあるのか?――米カリフォルニア最高裁、Gilead支持の重要判決

米カリフォルニア州最高裁が、製薬業界にとって非常に重要な判決を出しました。

争点となったのは、HIV治療薬大手のGilead Sciencesが、既存薬より安全性が高い可能性のある新薬を「もっと早く開発・発売すべきだったのではないか」という問題です。

患者側は、Gileadがより安全な薬の開発を意図的に遅らせたため、古い薬を使い続け、腎障害や骨障害などを被ったと主張しました。

しかし、カリフォルニア州最高裁は2026年8月3日、6対1でGilead側を支持しました。裁判所は、欠陥のない既存医薬品を販売している企業について、より安全な代替薬を早く開発・商業化する一般的な法的義務、いわゆる「duty to innovate(イノベーションする義務)」を認めませんでした。

これは単なるGileadのHIV薬をめぐる訴訟ではありません。

もし反対の判決が出ていれば、製薬会社の研究開発戦略そのものが裁判で問われる可能性が生まれていました。

今回は、この判決がなぜ重要なのか、製薬ビジネスの観点から解説します。


そもそも何が争われていたのか

問題となったのは、Gileadが開発した2種類のテノホビル系HIV治療薬です。

古い薬が、

TDF:tenofovir disoproxil fumarate

新しい薬が、

TAF:tenofovir alafenamide fumarate

です。

TDFはVireadやTruvadaなどに使われ、HIV治療やHIV感染予防に大きな役割を果たしました。

その後登場したTAFは、より少ない投与量で抗ウイルス効果を得られることから、腎臓や骨への影響を軽減できる可能性がある薬として開発されました。

ここで患者側が問題視したのが、Gileadの開発スケジュールです。

GileadはTDFの開発とほぼ並行してTAFの研究も行っていました。2001年にはTAFの臨床試験を開始し、小規模なPhase I/II試験も実施しています。

しかし2004年、GileadはいったんTAFの開発を中止しました。

患者側は、

「GileadはTAFがTDFより安全性に優れる可能性を知っていたにもかかわらず、TDFの売上を守るためにTAFを棚上げした」

と主張しました。

つまり、いわゆる製品カニバリゼーションを避けるための戦略的な開発延期だったのではないか、という疑惑です。


Gileadは2010年にTAF開発を再開した

Gileadは2010年にTAFの開発を再開し、2013年にPhase III試験を開始しました。

最終的にFDA承認を得たのは2015年です。

患者側は、

「本来ならTAFはもっと早く、例えば2006年頃には市場に投入できたのではないか」

と主張しました。

そして、その間TDFを服用した患者の一部が腎障害、骨障害などを発症したため、

「TAFがもっと早く利用できれば、こうした被害を回避できた」

というロジックでGileadを訴えました。

ここまでは、一般的な製造物責任訴訟に見えるかもしれません。

しかし、この裁判には非常に特殊なポイントがありました。


最大のポイントは「TDFは欠陥薬ではない」こと

患者側は、

「TDFそのものが欠陥医薬品だった」

とは主張していません。

むしろ、TDFは有効なHIV治療薬であることを認めています。実際、現在でもTDFを選択する患者は存在します。

つまり今回の訴訟は、

「販売している薬に欠陥はない。ただし、もっと良い薬を開発できたのだから、もっと早く発売すべきだった」

という、これまでとはかなり違う責任論だったわけです。

この考え方が認められると、

製品の欠陥ではなく、研究開発のスピードそのものが企業の法的責任になる

可能性があります。

これが「duty to innovate」という言葉で表現されている問題です。


カリフォルニア最高裁は「duty to innovate」を否定

カリフォルニア州最高裁は、この考え方を退けました。

裁判所の結論を簡単に言えば、

欠陥のない医薬品を販売している企業に、より安全な代替薬を早く開発・商業化する一般的な注意義務を課すべきではない

ということです。

判決では特に、医薬品開発が極めて不確実なプロセスであることが重視されています。

臨床開発の初期段階では、その候補薬が本当に安全なのか、本当に有効なのか、既存薬より優れているのかは分かりません。

今回のTAFも、問題となった2004年前後の段階では大規模なPhase III試験は行われておらず、当然ながらFDA承認も取得していませんでした。


なぜ「より良い薬を早く出せ」という義務が危険なのか

最高裁が特に懸念したのが、企業のR&D意思決定を裁判所や陪審員が後から評価することです。

製薬会社では常に、

「どの候補薬に研究資金を投入するか」

「どこまで臨床試験を進めるか」

「どのプロジェクトを中止するか」

「どの順番で承認申請するか」

といった意思決定が行われています。

しかし、その判断は非常に不確実です。

Phase Iで良さそうに見えてもPhase IIで失敗する薬は大量にあります。

Phase IIが成功してもPhase IIIで安全性問題が出ることもあります。

最高裁は、こうした意思決定について、何年も後になって、

「この薬を開発し続けるべきだった」

「この薬をもっと早くPhase IIIに進めるべきだった」

と裁判所が判断するのは難しいと考えました。

判決は、このような責任を認めれば製薬会社に巨額の負担を課し、研究開発の優先順位を歪め、結果として製薬イノベーションを萎縮させる可能性があると指摘しています。


製薬会社にとっては非常に大きな判決

この判決が製薬業界にとって重要なのは、単にGileadが巨額訴訟を回避したからではありません。

もし患者側の主張が認められていた場合、R&D企業は非常に難しい状況に置かれる可能性がありました。

例えば製薬会社が、

Aという薬を販売している。

一方で研究所には、

Aより少し安全かもしれないB Aより少し効くかもしれないC 作用機序が違うD

という候補があるとします。

しかし、すべてをPhase IIIまで進めることはできません。

数百億円、場合によってはそれ以上の資金が必要だからです。

そこで企業はBを中止してCを優先したとします。

10年後、

「Bを開発していれば患者の副作用を減らせた」

というデータが出たらどうでしょう。

もし「duty to innovate」が認められていれば、

研究開発を中止した判断そのものが訴訟リスクになる

可能性があります。

これは製薬会社にとって極めて大きな問題です。


R&Dポートフォリオマネジメントが訴訟対象になってしまう

製薬企業には、数十から数百の研究プロジェクトがあります。

当然ながらすべてを臨床開発することはできません。

そのため、

Probability of Technical Success 市場規模 Unmet Medical Needs 競合環境 開発コスト 安全性 特許期間

などを評価しながら、投資先を決めます。

これは一般にR&D portfolio managementと呼ばれる重要な経営活動です。

もし今回患者側が勝訴していた場合、

「なぜこのプロジェクトを止めたのか」

「なぜ別のプロジェクトを優先したのか」

という企業内部のR&D投資判断が、その後の患者被害との関係で訴訟対象になる可能性がありました。

これは製薬会社だけの問題ではありません。

実際、この訴訟では自動車、消費財、テクノロジー企業など他業界からもGileadを支持する意見書が多数提出されました。


ただし「Gileadが完全に正しかった」という判決ではない

ここは非常に重要です。

今回の判決は、

「GileadのTAF開発判断が倫理的に正しかった」

あるいは、

「Gileadが意図的にTAFを遅らせていなかった」

と認定したわけではありません。

患者側は、

「GileadはTDFの特許期間を最大限活用するためTAFを遅らせた」

と主張しています。

Gileadはこれを否定しています。

最高裁が判断した核心は、そうした事実認定というよりも、

仮に企業がより良い薬を早く開発できたとしても、それを実行しなかったことだけで不法行為責任を負わせるべきか

という法的問題です。

ここは区別して考える必要があります。


それでも製薬会社には既存の責任が残る

もちろん今回の判決は、

「製薬会社は何をしても責任を負わない」

という意味ではありません。

従来からある、

設計上の欠陥 製造上の欠陥 警告・表示上の欠陥 安全性情報の不適切な開示

などについては、引き続き製造物責任や過失責任の対象になります。

最高裁が否定したのは、

欠陥のない製品を売っている企業に、別のより良い製品をもっと早く開発せよという新しい義務を加えること

です。


反対意見も興味深い

判決は6対1でした。

Justice Kelli Evansは反対意見を出しています。

Evans判事は、今回の判決によって製薬会社が、患者に与えるリスクを十分考慮せず製品開発判断を行えるようになる可能性を懸念しました。

特に医薬品では、患者がその薬に依存せざるを得ないケースがあります。

HIV治療のような生命に関わる薬で、しかも特許によって企業が独占的な市場地位を持っている場合、

「企業に通常の製品以上の責任を求めるべきではないか」

という議論には一定の説得力があります。


実はこの裁判、「Evergreening」の問題ともつながっている

今回の事件が興味深いのは、製薬業界で以前から議論されてきた、

Lifecycle Management

あるいは

Evergreening

という問題とも関係するからです。

製薬企業では、新薬の特許期限が近づくと、

新規剤型 新規配合剤 新しいdrug delivery 新しい有効成分 次世代化合物

などを投入することがあります。

これは正常な製品戦略でもあります。

一方で、

「旧製品の特許が切れる直前に新製品を投入し、患者を新製品へ移行させることでジェネリックへの流出を防いでいるのではないか」

という批判もあります。

TAFのケースも患者側から見れば、この問題に近い構図です。

だからこそ、この事件は単なるProduct Liabilityではなく、

製薬会社のLifecycle Managementはどこまで許されるのか

という議論にもつながっています。


私がこの判決で最も重要だと思うポイント

今回の判決の本質は、

「イノベーションは義務なのか」という問いに裁判所がNOと答えた

ことだと思います。

製薬企業には、

「安全な薬を作る義務」

「正しい情報を提供する義務」

はあります。

しかし、

「常に現在より良い薬を開発し続けなければならない」

という法的義務まで課すと、企業は極めて難しい立場になります。

医薬品開発では、結果が分かった後なら、

「この薬を続けるべきだった」

と言うことは簡単です。

しかし研究開発の意思決定は、常に情報が不完全な状態で行われます。

今回の最高裁は、そうしたex-anteの不確実性を、ex-postの裁判で単純に評価すべきではないと考えた、と見ることができます。


ただし、製薬企業にとって「何でもあり」になったわけではない

一方で、製薬企業側もこの判決を単純な勝利と考えるべきではないでしょう。

今後重要になるのは、

なぜその開発プログラムを止めたのか

という意思決定の記録です。

安全性に関するシグナルがあったにもかかわらず、純粋に既存製品の売上を守る目的で開発を止めたような内部資料が存在すれば、たとえ今回と同じ法理で直接責任を問えなくても、

規制当局 議会 患者団体 メディア 投資家

から厳しい追及を受ける可能性があります。

したがって製薬企業にとっては、

R&D Governanceの透明性

がますます重要になるでしょう。


まとめ

今回のカリフォルニア州最高裁判決は、製薬業界にとってかなり重要な判例です。

争点を一言で表すなら、

「製薬企業には、より良い薬をもっと早く開発する法的義務があるのか」

という問題でした。

最高裁の回答は、

原則としてNO

でした。

少なくとも今回のように、既存薬自体が欠陥品ではなく、代替候補がまだ大規模臨床試験やFDA承認を経ていない状況で、「より安全な薬をもっと早く開発すべきだった」という理由だけで製薬企業に責任を負わせることはできない、という判断です。

個人的には、この判断は製薬R&Dの仕組みを考えると合理的だと思います。

もし「開発しなかったこと」が責任になると、企業は将来の訴訟を恐れて多数の候補薬を開発し続けざるを得なくなり、結果として研究資源の配分がおかしくなる可能性があるからです。

一方で、

「既存製品の特許と売上を守るために、本当により安全な薬を意図的に遅らせてもよいのか」

という倫理的な問題は残ります。

今回の判決は、この倫理問題にGileadが完全勝利したというより、

その問題を不法行為法による「duty to innovate」として解決するのは適切ではない

と最高裁が線を引いた判決、と理解するのが最も適切だと思います。

製薬企業のLifecycle Management、R&D Portfolio Management、そして患者利益。

この3つのバランスをどこに置くのか。

今回のGilead判決は、今後の製薬業界で長く引用される重要なケースになる可能性があります。

女性ヘルスケアの情報探索が変わる――RedditとAIがつくる「新しいヘルス・エコシステム」

女性の健康に関する情報収集の仕方が、大きく変わり始めています。

これまでなら「症状がある → Googleで検索する → 病院に行く」という比較的単純な流れが一般的でした。しかし現在は、Google、Redditなどのオンラインコミュニティ、医療従事者、SNS、そしてChatGPTのような生成AIを行き来しながら、情報をクロスチェックする行動が広がっています。

Fierce Pharmaが2026年8月に紹介したRedditとWeber Shandwickの共同調査は、この変化を女性ヘルスケアという観点から分析しています。米国の成人女性とそのパートナー886人を対象とした調査で、特に興味深いのは、Redditが単なるSNSではなく、患者が「医療を理解するための中間レイヤー」のような役割を果たし始めている点です。

女性ヘルスケアには「Experiential Gap」がある

今回のレポートの中心的な概念が、Experiential Gap(経験ギャップ)です。

医学的には「この疾患ではこの症状が出る」「この治療にはこの副作用がある」と説明されていても、患者が本当に知りたいのは、もっと生活に近い情報です。

たとえば、

  • 実際にはどんな感じの症状なのか
  • どの程度なら普通なのか
  • いつ病院に行くべきなのか
  • 仕事や育児にはどの程度影響するのか
  • 精神的にはどのくらいつらいのか

といった情報です。

調査では、女性が「もっと知りたかった」と回答した情報として、症状が実際にどう感じられるのか、感情面への影響、「正常」と「心配すべき状態」の違いなどが上位に挙げられています。つまり、医学的情報そのものよりも、医学情報を日常生活へ翻訳した情報が不足しているわけです。

これは非常に重要な指摘です。

医療機関や製薬会社が提供する情報は、どうしても「疾患」「有効性」「安全性」「治療選択肢」に寄ります。一方、患者が知りたいのは「その病気とどう暮らすのか」という部分です。

この空白を、患者同士のコミュニティが埋めています。

なぜRedditなのか

Redditが女性ヘルスケアで注目される最大の理由は、匿名性です。

調査では、センシティブな健康問題について、自分の身体のことをRedditで話すことに抵抗がない女性が81%だったのに対し、家族や友人では72%でした。つまり、匿名コミュニティの方が身近な人より話しやすいという逆転現象が起きています。

特に、

月経、不妊、PCOS、妊娠・産後、更年期、骨粗鬆症、脱毛、骨盤周辺の問題

といったテーマは、医師には聞けても友人には聞きにくい、あるいは医師に相談する前に「これは相談するほどのことなのか」を知りたい領域でもあります。

Redditでは、

「私はこうだった」

「この症状はいつまで続いた」

「私はこのタイミングで病院に行った」

といった“n=1”の経験談が大量に蓄積されます。

一つひとつは医学的エビデンスではありません。しかし大量の経験談を読むことで、患者は自分の状況を相対化できます。

ここにオンラインコミュニティ特有の価値があります。

Redditを使った女性の7割が「医師との会話の準備ができた」

今回の調査で特に重要なのが、オンライン情報探索が単なる「ネット検索」で終わっていない点です。

Redditを利用した女性の10人中7人が、その後の医療従事者との会話についてより準備ができたと感じたと回答しています。

さらにReddit利用者では、

「正常か、心配すべき状態なのかを理解できた」が47%で、非利用者では20%。

「自分の経験を説明する準備ができた」が39%に対して17%。

「医師の診察を受ける自信がついた」が39%に対して16%。

という差が示されています。

ここから読み取れるのは、Redditが医師を代替しているのではなく、患者が医療を受ける前の準備段階を支援しているということです。

これは医療DXを考えるうえでも重要です。

「ネットの医療情報 vs 医師」という対立ではなく、

ネットコミュニティ → AI → 医療機関

という患者ジャーニーが形成されつつあると考えた方が実態に近いでしょう。

そして、ここに生成AIが入ってきた

今回のレポートで個人的に最も重要だと思うのは、Redditそのものよりも、Redditと生成AIの組み合わせです。

調査では、健康情報にRedditを利用する人は、Redditを使わないSNS利用者と比較して、LLMを使って情報をクロスチェックする可能性が約3倍高いとされています。

またRedditの内部データなどによれば、AI経由の検索利用やAIチャットボットからRedditへの流入も大きく増加しています。

つまり現在起きているのは、

Google → Reddit

という変化だけではありません。

今後はむしろ、

ChatGPT → Reddit → 医療サイト → ChatGPT

という循環型の情報探索になる可能性があります。

患者はChatGPTに、

「更年期の初期症状にはどんなものがありますか」

と質問する。

そこで概要を理解したあと、

「実際に経験した人はどんな感じなのだろう」

とRedditを見る。

さらに、

「このRedditの経験談は医学的に妥当なのか」

とAIに戻って確認する。

そして最終的に医療機関へ行く。

これがレポートのいうCross-Referencing Ecosystemです。

女性ヘルスケアだけの話ではない

今回の調査は女性ヘルスケアを対象としていますが、この構造は他の疾患領域にも広がると考えられます。

たとえば、

がん治療の副作用、肥満治療薬、糖尿病、片頭痛、IBD、アトピー、希少疾患、精神疾患、慢性疼痛

など、「医学情報だけでは実際の生活がイメージしにくい疾患」では、同じ現象が起こりやすいでしょう。

特にGLP-1/GIP薬などは典型的です。

患者が知りたいのは、

「平均何kg減ったか」

だけではありません。

「吐き気はどの程度か」

「仕事しながら使えるのか」

「食欲がなくなるとはどんな感覚なのか」

「外食するとどうなるのか」

「薬をやめるとどうなるのか」

といった生活ベースの情報です。

こうした情報は臨床試験論文にはほとんど書かれていません。

そのため患者は、TikTok、YouTube、Reddit、患者ブログ、AIなどから補完情報を集めるわけです。

製薬会社にとって重要なのは「SEO」から「AI+コミュニティ最適化」への変化

今回のレポートは、ヘルスケア企業に3つの対応を提案しています。

第一に、Experiential Gapを埋めること

つまり、「薬が効くか」だけではなく、

「治療開始後に患者が何を感じるのか」

「どんなときに医師へ相談すべきか」

「生活上どう対応すればよいのか」

といったコンテンツを増やす必要があります。

第二に、情報をクロスリファレンスされる前提で設計すること

従来のデジタルマーケティングではSEOが非常に重要でした。

しかし今後は、

Google検索 +SNS +Redditなどのコミュニティ +生成AI

という複数の情報源からブランドや疾患情報が確認されます。

したがって、自社サイトの記事を検索上位にするだけでは不十分です。

レポートは、LLMが正確に情報を取得・引用しやすいよう、コンテンツを明確に構造化することまで推奨しています。

これは製薬マーケティングにとってかなり大きな変化です。

SEOに続いて、今後はGEO(Generative Engine Optimization)やAEO(Answer Engine Optimization)的な考え方が重要になる可能性があります。

「患者インサイト」の取り方も変わる

もう一つ重要なのがマーケットリサーチです。

製薬会社は従来、

患者インタビュー、アンケート、Patient Journey調査、Advisory Board

などを使って患者ニーズを調査してきました。

しかしRedditには、患者が調査員から質問されて答えたものではない、自然発生的な患者の会話が大量に存在します。

たとえば、

「何が一番怖いのか」

「医師には何を聞けなかったのか」

「診断されるまで何年かかったのか」

「家族にどう説明しているのか」

などです。

Ceek Women’s HealthのCEOも、Reddit上の会話から、骨盤診察に対する女性の不安がどこから生じているのかを深掘りできると説明しています。

これは従来のSocial Listeningより一歩進んだ、

Patient Experience Mining

のような領域になっていく可能性があります。

もちろんプライバシーや規制、薬機法上のプロモーション、Adverse Eventの取り扱いなどには慎重な対応が必要ですが、患者理解という意味では非常に大きなデータソースです。

パートナーも重要な情報探索者になっている

今回の調査にはもう一つ面白い結果があります。

患者本人だけでなく、そのパートナーが積極的に情報を調べているのです。

パートナーがデジタルコミュニティを使う目的としては、

感情への影響、日常生活での困難、どうサポートすればよいか

などが挙げられています。

調査ではパートナーのAI利用率も高く、ChatGPT利用が62%対40%、Geminiが50%対32%と、女性本人より高い数字が示されています。

これはPatient Journeyを考える際に、

PatientだけではなくCaregiver / Partnerもユーザーとして設計する必要がある

ことを示しています。

特に妊娠、不妊治療、更年期、がん、認知症、希少疾患などでは非常に重要でしょう。

まとめ――「患者は情報を探す」のではなく「情報を編集する」時代へ

今回のレポートを一言で表現するなら、

患者の情報探索が「検索」から「編集」に変わった

ということだと思います。

患者はGoogleの検索結果をそのまま信じるのではありません。

医師の説明を聞き、Redditで経験談を読み、YouTubeを見る。さらにChatGPTで整理し、もう一度医療サイトを確認する。

複数の情報源を行き来しながら、自分なりの「病気の理解」を作っていきます。

これは製薬企業にも大きな変化を迫ります。

従来の、

「正しい医学情報を提供する」

という発想だけでは足りません。

今後重要になるのは、

「患者が自分の経験を理解できる情報を提供すること」

そして、

「Google、コミュニティ、AIのどこから見ても、正確な情報へたどり着ける情報エコシステムを作ること」

でしょう。

RedditとWeber Shandwickが今回「New Health Ecosystem」と呼んでいるものは、単なるSNSトレンドではありません。

生成AI時代のPatient Journeyそのものが変化し始めていると捉えた方が、このレポートの意味を理解しやすいと思います。

「ジェットコースターだった」Novo Nordisk CFOが語る急成長と失速――CFOから見るWegovy時代の経営

Novo NordiskのCFO、Karsten Munk Knudsen氏がFierce Pharmaのインタビューで、自身の経営陣としての約9年間を「roller coaster(ジェットコースター)」と表現している。

この表現は、単にNovo Nordiskの株価が大きく上下したという意味ではない。

CFOの立場から見ると、Novo Nordiskはここ数年、

低成長 → 超高成長 → 巨額の生産投資 → 成長鈍化 → 投資家期待の修正

という、財務管理として非常に難しい局面を短期間に経験してきた。

今回の記事で興味深いのは、WegovyやCagriSemaそのものよりも、急成長企業のCFOが、成長率の急変にどう向き合っているのかという点である。


Novo NordiskのCFOが経験した「3つの時代」

Knudsen氏は1999年にNovo Nordiskへ入社し、2018年にCFOに就任した。本人によれば、経営陣に入った当初は成長率が低く、新しいマネジメントチームの下で大きなプレッシャーを受けていたという。

その後、状況は一変した。

肥満症・糖尿病領域の需要拡大によって、一部の四半期では売上が20%、30%、さらには40%近く伸びる「hyper growth」の時代に入った。そこで経営課題になったのは需要創出ではなく、需要に供給を追いつかせることだった。

そして現在。

その急成長が、始まった時と同じくらい急速に減速した。

Knudsen氏自身、

「成長が急速に鈍化し、多くの投資家を失望させ、過去2年間で株価が大きく下落した」

という趣旨の説明をしている。

CFOの視点で整理すれば、Novo Nordiskはこの数年間で、

①低成長企業の財務管理 ②超高成長企業の財務管理 ③成長正常化局面の財務管理

をほぼ連続して経験したことになる。

これはかなり特殊な状況だ。


CFOにとって本当に難しいのは「成長」ではなく「成長率の変化」

企業財務では、売上が伸びていること自体よりも、

その成長率が予想からどれほどずれるか

のほうが重要になる場合がある。

例えば売上が前年比10%成長していても、市場が20%成長を織り込んでいれば、それは「失望」と評価される。

反対に、売上が前年比5%減少していても、市場が10%減を想定していれば株価が上昇することもある。

Novo Nordiskが現在直面しているのはまさにこの問題である。

2026年第2四半期の調整後売上高は785億DKKで、為替一定ベースで前年同期比7%増。調整後営業利益は334億DKKで11%増だった。数字だけを見れば、決して悪い業績ではない。

それでも市場の反応は厳しかった。

背景にあるのは、数年前までNovo Nordiskが20~40%という異常なほど高い成長を経験していたからである。

つまりCFOにとっての問題は、

「会社は成長しているか」

ではない。

むしろ、

「過去の超高成長によって作られた市場期待を、どう現実的な成長率へ着地させるか」

なのである。


CFOの最大の仕事①:需要予測と生産投資を合わせる

Novo Nordiskの超成長期における最大の問題は、販売ではなく供給だった。

Knudsen氏も当時を振り返り、経営の中心課題は「前例のない需要に対応するため製造能力を拡大することだった」と説明している。

これはCFOにとって極めて難しい判断である。

製薬企業の生産能力は、単純に工場を借りれば増やせるものではない。

設備投資を行い、製造ラインを構築し、バリデーションを行い、品質管理体制を整えなければならない。

つまり、

今日決めた設備投資が、本格的に利益を生むのは数年後

になる。

そのためCFOは、

「現在の需要」

ではなく、

数年後の需要を予測して巨額の資本を投入する

必要がある。

超高成長期には、この判断は比較的容易に見える。

需要が供給を大幅に上回っているからだ。

しかし、本当に難しいのはその後である。

成長率が鈍化した場合でも、一度決定した工場投資は簡単には止められない。

そのため、

需要成長率の鈍化と、生産能力増強のタイムラグ

がCFOにとって重要なリスクになる。

Novo Nordiskの「ジェットコースター」という表現は、売上だけではなく、この資本配分の難しさも表していると考えられる。


CFOの最大の仕事②:「成長投資」と「利益率」を同時に管理する

2026年第2四半期のNovo Nordiskの調整後営業利益率は42.5%だった。

依然として非常に高い収益性である。

一方、Novo Nordiskは営業・R&D・製造能力などへの投資も継続している。Novo自身も過去の財務方針で、成長ドライバーに対するR&D、Commercial、Manufacturingへの継続投資を営業利益見通しの重要要素として説明してきた。

ここでCFOは難しい判断を迫られる。

成長が鈍化すると、一般的な企業であれば、

「コストを削減して利益率を維持する」

という選択肢が浮上する。

しかし製薬企業の場合、それをやり過ぎると、

研究開発費削減 ↓ 次世代製品減少 ↓ 将来成長率低下

という悪循環に入りかねない。

したがってNovo NordiskのCFOが管理しなければならないのは、

現在の利益率ではなく、「将来の成長を壊さない利益率」

である。

この違いは非常に重要だと思う。


CFOの最大の仕事③:パイプラインを「資産」として評価する

今回のインタビューで興味深いのがCagriSemaに対するKnudsen氏のコメントである。

CagriSemaは2型糖尿病患者を対象としたPhase 3試験で主要評価項目の一つを達成できなかった。

それでもKnudsen氏は、HbA1c低下1.9ポイント、体重減少15.2%という結果を評価し、長期的に競争力のある糖尿病製品になる可能性に楽観的な姿勢を示している。

一見すると、これはR&D責任者やCEOが語る内容にも見える。

しかしCFOにとっても非常に重要である。

なぜなら製薬企業では、

パイプライン=将来キャッシュフローの源泉

だからである。

CFOは臨床試験データそのものだけではなく、

承認確率 × 将来患者数 × 価格 × 市場浸透率 × 製品寿命

といった要素から、パイプラインの経済価値を考える必要がある。

したがってCagriSemaについても、

「試験で勝ったか負けたか」

という二択ではなく、

「このプロファイルでも十分な将来キャッシュフローを生めるのか」

という評価になる。

この点にCFOらしい視点が表れている。


興味深いのは、2026年Q2に実際に巨額のパイプライン減損が出ていること

2026年第2四半期には、Novo Nordiskはパイプライン関連無形資産について63億DKKの一時的な非現金減損を計上している。そのうち40億DKKがmonlunabant関連だった。

これはCFOの仕事を考えるうえで非常に象徴的である。

医薬品パイプラインには巨額の価値がある一方、その価値は、

臨床試験 規制当局 市場性 競合状況

などによって突然変わる。

つまり製薬企業のCFOは、

工場や在庫だけでなく、「科学の成功確率」を財務数字に変換する仕事

をしているとも言える。

研究開発プロジェクトの価値が低下すれば、会計上その価値を減損しなければならない。

逆に有望なパイプラインが増えれば、将来の成長期待は高まる。

製薬企業のCFOが他産業より難しい理由の一つはここにある。


CFOの最大の仕事④:投資家の「期待値」を管理する

Knudsen氏のコメントでもう一つ重要なのが、

「投資家を失望させた」

と明確に認識していることである。

CFOのIR活動では、

「良い数字を見せる」

だけでは不十分である。

重要なのは、

企業の実力と市場期待をできるだけ近づけること

である。

過度に高い期待が形成されれば、企業が優良な業績を出しても株価は下落する。

Novo Nordiskはまさにその状態に近い。

2026年Q2には業績見通しを引き上げているにもかかわらず、市場ではoral Wegovyなどへの期待との差が意識され、発表後の株価は下落した。

CFOからするとこれは非常に難しい。

業績予想を保守的にし過ぎれば、経営陣が成長に自信を持っていないと見られる。

反対に強気すぎれば、達成できなかった時に信用を失う。

したがって今後のNovo Nordiskでは、

「どれだけ成長できるか」だけでなく、「どの程度の成長を市場に約束するか」

が重要になってくる。


「株価を上げる」のではなく「持続可能な成長を作る」

今回のインタビューで最も印象的なのは、Knudsen氏がプレッシャーについて語った部分だと思う。

彼は、経営陣には進むべき方向を決め、会社を持続可能な将来成長へ導く責任があるという趣旨の説明をしている。

ここで「株価を戻す」とは言っていない。

sustainable future growth

という言葉を使っている。

CFOにとって重要なのは、短期的な株価対策ではなく、

売上成長 利益率 R&D投資 設備投資 キャッシュフロー 資本効率

を同時に成立させることである。

特にNovo Nordiskの場合、

「GLP-1需要にどこまで投資するか」

「次世代製品にどれだけ資金を振り向けるか」

を同時に考えなければならない。

これは単なる財務管理ではなく、ほとんど経営戦略そのものである。


Novo Nordiskのケースは「CFOの仕事が変わった」ことを示している

昔のCFO像は、

決算 予算管理 資金調達 会計 税務

といったFinance機能の責任者というイメージが強かった。

しかしNovo NordiskのKnudsen氏の発言を見ると、現在のCFOはかなり違う。

CFOが考えているのは、

どこまで工場を増やすか

どの研究開発に資本を投入するか

どのパイプラインを将来の成長ドライバーとして評価するか

どの成長率を市場にコミットするか

成長減速時にどこまでコストをコントロールするか

といった経営そのものの問題である。

実際、Novo Nordiskの過去の経営報酬制度を見ても、CFOの評価には売上、営業利益、非財務指標に加え、volatileな事業環境における財務管理や効率化が組み込まれていた。

つまり現在のCFOは、

「数字を報告する人」ではなく、「数字がどうなる会社を作るかをCEOと一緒に考える人」

になっている。


まとめ:Novo Nordiskの本当の課題は「再成長」より「成長の正常化」

今回のFierce Pharmaの記事だけを見ると、

「Novo Nordiskが再び成長できるか」

という話に見える。

しかしCFOの視点から見ると、少し違う。

Novo Nordiskは一度、

20~40%成長という非常に特殊な世界

を経験してしまった。

その結果、

生産能力 研究開発投資 組織規模 投資家期待 企業価値

のすべてが、その高成長を前提として拡大した。

現在CFOに求められているのは、単に再び高成長に戻すことではない。

むしろ、

超高成長企業から、持続的に成長できる巨大製薬企業へ財務構造を移行させること

なのではないか。

Knudsen氏が自身の9年間を「ジェットコースター」と表現したのは非常に象徴的である。

低成長の時代には、

「どう成長させるか」

がCFOの課題だった。

超高成長の時代には、

「どう供給能力を増やすか」

が課題になった。

そして現在は、

「成長率が正常化する中で、どの投資を残し、どの期待を修正し、次の成長エンジンに資本を振り向けるか」

が課題になっている。

Novo Nordiskの今後を見る際には、Wegovyの売上だけを見るよりも、

CAPEX、R&D投資、営業利益率、パイプライン減損、そして会社側が示す中長期の成長率

を追う方が、経営の実態を理解しやすいと思う。

今回のインタビューは、Novo Nordiskという会社のニュースであると同時に、

「急成長企業のCFOは何をするのか」

を非常に分かりやすく示したケースでもある。

BMSはClaudeで何をしようとしているのか?――「生成AI導入」を超え、製薬会社そのものをAI前提に作り替える試み

ブリストル マイヤーズ スクイブ(BMS)が、生成AI「Claude」を開発するAnthropicとの戦略的提携を進めている。

2026年8月5日のミクスOnlineの記事では、研究開発から製造、営業・マーケティング、さらには人材育成や組織設計までAIを活用していくBMSの取り組みが紹介されている。

一見すると、

「BMSが社内でClaudeを使い始めた」

というニュースにも見える。

しかし、BMSの公式発表まで読むと、狙っているものはかなり大きい。

BMSが目指しているのは、社員が必要なときにChatGPTのようなAIを使う会社ではない。

ClaudeをBMSのデータ、システム、業務プロセスにつなぎ、創薬から薬の販売までの仕事そのものをAI前提に再設計することである。

これは製薬企業におけるAI活用の次の段階として、非常に興味深い。


BMSはClaudeを3万人以上の社員に展開する

BMSとAnthropicがグローバルでの戦略的提携を発表したのは2026年5月20日。

BMSはClaudeを、

  • 研究
  • 臨床開発
  • 製造
  • Commercial
  • Corporate functions

まで、全社的に導入するとしている。

対象となる社員は3万人以上。

しかし重要なのは人数ではない。

BMS自身が今回の取り組みについて、

「Conversational AIからAgentic AIへ」

という方向性を明確にしていることである。

これまでの生成AIは、

人間 ↓ 質問する ↓ AI ↓ 回答する

という使われ方が中心だった。

BMSが狙っているのは、

人間 ↓ Claude ↓ 社内データ・システム・文書 ↓ 分析・検索・文書作成・ワークフロー実行 ↓ 人間が判断

という世界である。

つまりClaudeを単なるチャットボットではなく、

「BMSという会社を横断する知能のレイヤー」

にしようとしている。

ここが今回の提携で最も重要なポイントだと思う。


では、具体的に何をするのか?

BMSの公式発表を見ると、かなり具体的なユースケースが示されている。

大きく分けると5つある。


① 創薬――過去数十年の研究データをAIに読ませる

まず研究開発。

BMSには当然ながら、

  • 基礎研究データ
  • 分子データ
  • 化合物データ
  • バイオマーカーデータ
  • 臨床試験データ
  • 過去の成功・失敗プロジェクト
  • 論文
  • 社内研究レポート

など、膨大な情報が蓄積されている。

問題は、それらが必ずしも一つにつながっていないことである。

研究者がすべての情報を把握することなど不可能だ。

そこでClaudeを介して、BMSが何十年にもわたって蓄積してきた科学・分子・臨床データを横断的に解析する。

対象領域として、

  • Oncology
  • Hematology
  • Neuroscience
  • Immunology

などが挙げられている。

狙いは例えば、

「この疾患では、どの標的を狙うべきか」

「この標的を阻害した場合、どの患者群で効きそうか」

「過去の研究で似たメカニズムを検討していないか」

「臨床試験結果と分子データを組み合わせると何が見えるか」

といった問いへの回答を高速化することだ。

これは単なる論文検索ではない。

BMS内部に眠っている研究知識そのものをAIから呼び出せるようにする

という考え方である。


② 臨床開発――治験終了から申請までを短縮する

個人的に、最も短期的な効果が出やすそうなのがここだと思う。

新薬開発では治験が終了しても、すぐ承認申請できるわけではない。

大量の文書を作らなければならない。

例えば、

  • Clinical Study Report
  • Patient Safety Narrative
  • 各種解析結果
  • 規制当局提出資料
  • その他の申請関連文書

などである。

BMSはClaudeを使い、

臨床データからこうした文書を作成する一連のワークフローをAIエージェント化する

ことを検討している。

特にBMSが明確に掲げている指標が、

Data Lock → Filing

の期間短縮である。

治験データを確定するData Lockから、FDAなどへの申請までの時間を短くする。

これは製薬会社にとって非常に大きい。

新薬の発売が仮に数か月早くなれば、その数か月分だけ患者へのアクセスも早くなり、企業としての売上機会も増える。

生成AIによる文章作成というと、

「資料作成が30分早くなった」

程度の話になりがちだが、BMSが狙っているのはもっと大きい。

医薬品開発のクリティカルパスそのものを短くすること

なのである。


③ 製造・品質――逸脱調査までAIが支援する

さらに興味深いのが製造部門である。

BMS公式発表にはかなり具体的に、

  • Root-cause investigation
  • CAPA documentation
  • Data-driven batch release decisions

が挙げられている。

例えば医薬品工場で何らかの逸脱が発生したとする。

通常、

「なぜ起きたのか」

を調べ、

原因分析を行い、

再発防止策を考え、

CAPA(Corrective and Preventive Action)の文書を作成する。

これには大量の製造記録、設備情報、過去の逸脱事例、SOPなどを確認する必要がある。

Claudeがそれらにつながれば、

「今回の逸脱に類似した事象を過去5年間から探す」

「関連する製造条件の変化を抽出する」

「原因候補を列挙する」

「CAPA文書のドラフトを作成する」

といった作業をAIが支援できる。

さらにBatch Release、つまり製造した医薬品を出荷可能と判断するプロセスについても、データ駆動型の意思決定を支援する構想が示されている。

製薬AIというと創薬ばかり注目されるが、

製造・品質保証こそ生成AIの大きな応用領域になる可能性がある。


④ MR・マーケティング――「Next Best Action」に近づく

ミクスの記事で製薬マーケティング関係者に最も興味深いのはこちらだろう。

BMSはCommercial & Medical Affairsにおいて、

Field InsightsをStructured Intelligenceに変える

としている。

MRやMSLは日々、医師から大量の情報を得ている。

例えば、

「この薬はこの患者には使いにくい」

「副作用が気になる」

「このデータについてもっと知りたい」

「競合薬を最近使うことが増えた」

などである。

しかし、こうした情報の多くは自由記述であり、企業全体で十分に活用するのは難しい。

そこでAIが、

MR・MSLの活動 ↓ 医師の発言・反応 ↓ AIによる構造化 ↓ ニーズ・課題・関心の抽出 ↓ 次に提供すべき情報を判断

という流れを作る。

目標は、

「適切な人に、適切な情報を、最も重要なタイミングで届ける」

ことだ。

製薬マーケティングで以前から議論されてきた、

Next Best Action Next Best Engagement

の高度化とも考えられる。

従来のNBAは、

処方データ + MR活動データ + Web行動

など比較的構造化されたデータが中心だった。

生成AIを使えば、

MRやMSLが現場で得た非構造化情報まで意思決定に利用できる。

ここは非常に大きな変化になる可能性がある。


⑤ Claudeを「社内検索」ではなく「社内知能」にする

もう一つ重要なのがデータ統合だ。

Anthropic側は今回の構想について、ClaudeをBMS社内の数千のデータソースにつなぐとしている。

つまり、

研究データ 臨床データ Regulatory情報 製造データ Commercial情報

などをClaudeから横断的に扱えるようにする。

例えば、

「この薬剤の過去の臨床データを探して」

だけではなく、

「この臨床データと過去の研究結果を照合し、申請文書のドラフトを作成して」

というように、

検索→分析→推論→文書作成

まで一連の作業として実行できる可能性がある。

これがBMSの言う、

Shared Intelligence Platform

の意味だろう。


Claude Codeまで全社開発基盤に入れる

もう一つ見逃せないのがClaude Codeである。

BMSのエンジニアやデータサイエンティストはClaude Codeを使って、

  • ソフトウェア開発
  • AI開発
  • データ処理
  • 社内システムとの接続

などを高速化する。

つまりBMSは、

Claudeを使ったAIアプリケーションを外部ベンダーに作ってもらうだけではない。

社内のエンジニア自身がAIを使ってAIシステムを作る

体制にしようとしている。

この点も重要である。


実はBMSは3年以上前から生成AIを使っている

今回突然AIを導入したわけではない。

BMSによると、すでに3年以上にわたり独自の社内AIプラットフォームを運用しており、社員には複数の最先端AIモデルへのアクセスを提供してきた。

つまり、

第1段階 AIを社員に使わせる

第2段階 AI利用を普及させる

第3段階 AIを業務プロセスに組み込む

第4段階 AIエージェントが複数システムを横断して仕事をする

という進化の途中にいる。

今回のAnthropicとの提携は、

第3段階から第4段階への移行

と考えると非常に分かりやすい。


さらにBMSはNVIDIAとも組んでいる

ここまで見るとBMSのAI戦略の全体像がさらに面白くなる。

2026年7月にはBMSはNVIDIAとの提携拡大も発表した。

最新のDGX Vera Rubin NVL72を使った大規模AIインフラを導入し、独自AIモデルの開発・運用を強化する。

つまりBMSは大まかに、

NVIDIA =AIを動かす計算インフラ

BMS独自AI・データ =製薬会社固有の知識

Anthropic Claude =人間とデータ・システムをつなぐAI・Agent Layer

という構造を作ろうとしているように見える。

特定のAI会社一社にすべて依存するというより、

Multi-vendor AI strategy

を取っている点も興味深い。


そして人事まで変えようとしている

ミクスの記事で面白いのはここからである。

日本・アジアパシフィック地域の人事責任者によれば、BMSでは社員の、

  • AI利用状況
  • AIスキル
  • 活用レベル

などを可視化しようとしている。

さらにそれを、

  • 社員育成
  • プロジェクトへの配置
  • チーム編成

にも活用するという。

例えば新しいAIプロジェクトを始める際、

「誰がAIを使えるのか」

「誰が臨床開発に詳しいのか」

「誰がデータ分析に強いのか」

を組み合わせてチームを作る。

つまりAIによって仕事が変わるだけでなく、

AI時代に合わせて組織設計まで変えようとしている。

ここまで踏み込んでいるのがBMSの面白いところだ。


社員自身がAIの使い方を実験する

BMSではトップダウンだけでAI活用を決めているわけでもない。

社員が自発的に、

「この仕事にAIを使ったらどうなるか」

を試し、

成果や失敗を共有する文化を作っているという。

実際に社員によるAIセミナーも毎週行われているとされる。

これはかなり重要だと思う。

生成AIでは、

「会社が正しい使い方を決めて社員に教える」

だけでは、新しい用途はなかなか生まれない。

現場の人間が、

「これもAIにやらせられるのではないか」

と試すことでユースケースが発見される。

BMSはこのボトムアップ型の実験を組織的に促そうとしているようだ。


ただし「全部すでに実現している」わけではない

ここは今回のニュースを読むうえで注意したい。

BMS公式発表を見ると、研究、臨床開発、製造、CommercialなどへのAIエージェント活用については、

「evaluate the potential」

という表現も使われている。

したがって、

「Claudeがすでに自動で承認申請を行っている」

「AIがすでに製造Batch Releaseを決定している」

という意味ではない。

現在は、

Claude Enterpriseを全社基盤として展開しながら、どの重要業務をAgentic Workflowに変えるかを具体化・実装している段階

と理解するのが妥当だろう。

それでも、対象業務がかなり具体的に提示されていることから、単なる「生成AIを活用します」という宣言とはかなり違う。


製薬企業のAI競争は「どのLLMを使うか」ではなくなる

今回のBMSの取り組みを見ていると、今後の製薬会社のAI競争について一つ重要なことが見えてくる。

競争力を決めるのは、

「Claudeを使っている」

「ChatGPTを使っている」

ということではないだろう。

同じモデルは競合企業も利用できるからだ。

本当の差は、

AI × 自社データ × 業務プロセス × 人材

の組み合わせから生まれる。

特に製薬会社には、

数十年分の研究データ 臨床試験データ 医師との接点データ 製造データ 規制当局とのやり取り

という巨大な「企業知」が蓄積されている。

これまではその多くが、

部署 システム 文書 担当者

の中に分散していた。

生成AI、特にAgentic AIが本当に大きなインパクトを持つとすれば、

そのバラバラだった企業知をつなげられること

なのかもしれない。


BMSが作ろうとしているもの

今回のBMSの動きを一言で表すなら、

「AIを使う製薬会社」から「AIと一緒に動く製薬会社」への転換

ではないだろうか。

研究者がAIを使う。

MRがAIを使う。

人事がAIを使う。

という個別の話ではない。

創薬 ↓ 臨床開発 ↓ 承認申請 ↓ 製造 ↓ Medical ↓ Marketing / Sales

という医薬品のバリューチェーン全体にAIエージェントを配置し、その背後にある社内データと接続する。

さらに、その環境で働く人材のスキルや組織まで再設計する。

BMSが狙っているのはそこまで大きな変革である。

もしこれが本当に機能すれば、製薬業界におけるAIのインパクトは、

「資料作成時間を20%削減した」

といったレベルでは終わらない。

一つの新薬を発見してから患者に届けるまでの時間そのものを短縮できるか

が勝負になってくる。

BMSとAnthropicの提携は、その実験がいよいよ製薬企業の中核業務に入り始めたことを示す事例として、今後かなり注目しておく価値があると思う。

製薬メーカーの年収はなぜこれほど違うのか――ランキングの数字だけでは見えない5つの要因

製薬企業の平均年収には、かなり大きな差がある。

AnswersNewsが国内の製薬会社・バイオベンチャー88社の有価証券報告書を集計した「2026年版 製薬会社年収ランキング」によると、2025年度の平均年収は、1位のサンバイオが2,022.9万円だった。一方、ランキング下位には平均年収500万円前後の企業もあり、同じ「医薬品業界」でありながら、企業間で4倍近い開きが生じている。集計対象企業全体の平均は854.2万円で、1,000万円を超えた企業は19社だった。

大手新薬メーカーに限っても、中外製薬が1,350.7万円、武田薬品工業が1,144.5万円、アステラス製薬が1,131.5万円、エーザイが1,123.3万円、第一三共が1,097.6万円、小野薬品工業が1,093.5万円と、トップの中外製薬と他社の間には200万円以上の差がある。

なぜ、同じように新薬を研究・開発し、販売している企業でも、これほど年収が違うのだろうか。

結論から言えば、製薬企業の平均年収は、単純な「会社の売上規模」では決まらない。

より重要なのは、次の5つである。

  1. 従業員1人当たりの利益
  2. 製品ポートフォリオと利益率
  3. 従業員の職種・年齢・役職構成
  4. 賞与と報酬制度
  5. 企業規模と平均値の歪み

以下、それぞれ考えてみたい。

1.最も重要なのは「従業員1人当たりの利益」

製薬企業の給与水準を考えるうえで、最も分かりやすい指標は、売上高そのものではなく、従業員1人当たりの利益である。

売上が1兆円ある企業でも、その売上を実現するために数万人を雇用し、工場、営業組織、物流網を維持していれば、従業員1人当たりに生み出される利益は必ずしも高くない。

反対に、売上規模がそれほど大きくなくても、

  • 高収益の新薬を持つ
  • 製造や販売の一部を外部化している
  • 少人数でグローバルにライセンス収入を得る
  • 親会社や提携企業のインフラを利用する

といった企業は、従業員1人当たりの利益が大きくなる。

この点で中外製薬は非常に特徴的である。

中外製薬は2025年の売上収益が約1兆2,579億円、営業利益が約5,988億円だった。単純計算でも営業利益率は約48%に達する。さらに同社は、2025年の従業員1人当たり営業利益が7,917万円だったと説明している。

一般的な製造業と比べても、極めて高い収益性である。

会社が従業員1人から年間数千万円規模の営業利益を生み出しているのであれば、平均年収1,300万円を支払っても、企業側には十分な余力がある。

つまり、中外製薬の高年収は、単なる「製薬業界だから」ではなく、非常に高い労働生産性と利益率の結果だと考えられる。

2.製品ポートフォリオが給与原資を決める

製薬企業の利益は、どの薬を持っているかによって大きく変わる。

特に高収益になりやすいのは、

  • 特許期間中の大型新薬
  • がん、希少疾患、免疫疾患などの高薬価製品
  • グローバル市場で販売できる製品
  • 他社に導出し、ロイヤルティー収入を得られる製品
  • 製造原価に対して販売価格が高いバイオ医薬品

などである。

一方、後発医薬品、長期収載品、一般用医薬品、原薬・中間体などを中心とする企業は、一般に価格競争や薬価改定の影響を受けやすい。

後発医薬品メーカーの場合、製品数が多く、工場、品質管理、安定供給、物流などに多くの人員と設備を必要とする。その一方、製品単価は低く、薬価引き下げの影響も受ける。

そのため、新薬メーカーより売上高人件費率を厳しく管理せざるを得ない。

実際、今回のランキングでも、東和薬品は694.8万円、ニプロは681.4万円、扶桑薬品工業は604.9万円となっている。もちろん個別企業ごとに事情は異なるが、高収益のグローバル新薬を持つ企業と、国内中心の後発品・成熟品企業との事業構造の違いが、給与水準に表れていると考えられる。

製薬業界では「研究開発型企業かどうか」だけでは不十分である。

重要なのは、研究開発の成果が、現在どれだけ利益として回収できているかである。

3.平均年収は「従業員の構成」に強く左右される

有価証券報告書に掲載される平均年収は、同じ職種の社員同士を比較した数字ではない。

会社に在籍している従業員全体の平均である。

そのため、平均年収は次のような要因だけでも大きく動く。

  • 平均年齢
  • 管理職比率
  • 研究職比率
  • 本社スタッフ比率
  • 営業職比率
  • 製造・物流部門の比率
  • 国内社員と海外社員の範囲
  • 持株会社か事業会社か

例えば、少人数の持株会社では、在籍者の多くが経営企画、財務、法務、人事、事業開発などの管理職・専門職になる。

この場合、事業会社の営業担当者、工場従業員、若手研究員などが集計に含まれないため、平均年収は高くなりやすい。

AnswersNewsのランキングでも、大塚ホールディングスやあすか製薬ホールディングスなど、持株会社には注記が付けられている。これらの数字を、傘下の製薬会社で働く全社員の平均年収と考えるのは適切ではない。

また、平均年齢も重要である。

例えば、サンバイオの平均年齢は47.8歳、ソレイジア・ファーマは56.0歳、シンバイオ製薬は56.6歳だった。一方、東和薬品は35.5歳、レナサイエンスは34.3歳である。

日本企業では年齢や職位と給与に一定の相関が残っているため、平均年齢が10歳以上違えば、会社の給与テーブルが同じでも平均年収には相当な差が出る。

したがって、平均年収ランキングを見る際には、少なくとも平均年齢と従業員数を同時に確認する必要がある。

4.製薬企業の年収は「基本給」より賞与で動く

年収ランキングは、企業の恒常的な給与水準だけを表しているわけではない。

業績連動賞与や一時金の影響を強く受ける。

今回、中外製薬の平均年収は前年度から143.4万円増加した。住友ファーマは192.3万円増加し、905.5万円まで回復した。一方、第一三共は16.6万円減少し、ネクセラファーマは696.4万円減少した。

社員の基本給が1年間で100万円、200万円変わることは通常考えにくい。

大幅な変動の多くは、

  • 業績連動賞与
  • 株式報酬
  • 特別賞与
  • 早期退職に伴う人員構成の変化
  • 集計対象者の変化
  • 平均年収の算出方法変更

などによって生じている可能性が高い。

小野薬品工業についても、2025年度から平均年収の算出方法を変更し、残業手当などの基準外賃金を含めるようになったと説明されている。したがって、前年差76.2万円のすべてを純粋な賃上げと見ることはできない。

年収ランキングは、静的な給与水準というより、

「その年度に会社が従業員へどれだけ配分したか」

を示す数字に近い。

したがって転職先を考える際には、単年度の平均年収だけでなく、少なくとも3~5年間の推移を見るべきである。

5.バイオベンチャーの高年収は、大手製薬と意味が違う

今回のランキングでは、上位に多くのバイオベンチャーが入っている。

1位のサンバイオは2,022.9万円、2位のソレイジア・ファーマは1,480.0万円、3位のシンバイオ製薬は1,375.8万円だった。

ただし、これをそのまま「バイオベンチャーのほうが大手製薬より待遇が良い」と解釈するのは危険である。

小規模なバイオベンチャーでは、従業員数が少なく、社員の多くが、

  • 経営幹部
  • 創薬研究の責任者
  • 臨床開発責任者
  • 薬事責任者
  • 事業開発責任者
  • 財務・IRの専門人材

といった高経験・高年齢の専門職で構成される。

若手社員、工場従業員、大規模営業部隊をほとんど持たない企業も多い。

そのため、平均年収は高くなりやすい。

さらに、従業員が数十人程度の会社では、数人の採用・退職や賞与の変化だけで、平均年収が数百万円動くことがある。

実際、ネクセラファーマの平均年収は前年度から696.4万円減少し、モダリスは276.2万円減少している。一方でサンバイオは381.7万円増加している。

大手製薬会社の平均年収がこれほど激しく動くことは通常ない。

バイオベンチャーの平均年収には、

  • 少人数ゆえの統計的な振れ
  • 幹部・専門職中心の組織構成
  • 株式報酬や成功報酬
  • 製品承認や資金調達などのイベント

が強く反映される。

したがって、大手製薬の1,100万円と、従業員数の少ないバイオベンチャーの1,400万円は、同じ意味の数字ではない。

中外製薬の年収が特に高い理由

大手新薬メーカーの中で、中外製薬が他社を200万円以上引き離している理由は、複数の要因が重なっていると考えられる。

第一に、利益率が非常に高い。

2025年の売上収益約1兆2,579億円に対して営業利益は約5,988億円であり、約48%という極めて高い営業利益率を実現している。([中外製薬][3])

第二に、ロシュとの提携モデルがある。

中外製薬は、自社創製品をロシュのグローバルネットワークで世界展開できる一方、ロシュの製品を日本市場に導入できる。この仕組みにより、単独で巨大な海外販売組織を構築するよりも、効率的にグローバル収益を得られる。

第三に、がん領域や抗体医薬品を中心とする高付加価値型の製品構成である。

第四に、会社自身が従業員1人当たり営業利益を重要な生産性指標として掲げており、少人数・高生産性の組織運営を志向している。2025年の従業員1人当たり営業利益は7,917万円とされている。([中外製薬][2])

つまり中外製薬は、単に売れている薬があるだけではなく、

「高収益製品×グローバル提携×少人数の高生産性組織」

という、給与を高くしやすい事業構造を持っている。

業績が良くても、必ず年収が高いとは限らない

もっとも、企業利益と社員年収が完全に連動するわけではない。

会社が生み出した利益は、給与以外にも、

  • 研究開発投資
  • 設備投資
  • 企業買収
  • 借入金の返済
  • 配当
  • 自社株買い
  • 将来の特許切れに備えた内部留保

などに配分される。

特に製薬企業は、1つの主力品の特許切れによって、数年後に売上と利益が急減する可能性がある。

そのため、現在の業績が好調でも、経営陣が将来のパテントクリフを警戒している場合、固定費となる基本給を大幅に引き上げず、賞与や一時金で社員に還元することがある。

また、大型買収による有利子負債を抱えている企業では、利益が出ていても、財務改善を優先する可能性がある。

企業の年収水準を見る際には、単年度の営業利益だけでなく、

  • 過去数年の利益推移
  • 主力品の特許満了時期
  • 研究開発パイプライン
  • 買収後の負債
  • 人員削減の実施状況
  • 株主還元方針

まで見る必要がある。

転職者が平均年収ランキングを見る際の注意点

平均年収ランキングは、業界の全体像を把握するには有用だが、自分が実際に受け取る年収を予測する材料としては限界がある。

特に注意したいのは、以下の点である。

平均年収は「自分の職種の相場」ではない

研究職、開発職、MR、マーケティング、メディカル、薬事、製造、品質保証では、それぞれ市場価値と給与水準が異なる。

企業平均が1,100万円でも、若手研究員の年収が1,100万円とは限らない。

日本法人とグローバル本社では制度が違う

外資系製薬会社の場合、日本法人が非上場であることが多く、有価証券報告書のランキングには十分に反映されない。

そのため、このランキングだけで国内製薬業界全体の高年収企業を網羅しているとは言えない。

持株会社の数字は比較しにくい

持株会社の平均年収には、少人数の経営・管理人材しか含まれていない場合がある。

事業会社の社員待遇とは分けて考える必要がある。

単年度の増減を過大評価しない

賞与、退職、採用、算出方法の変更によって、平均年収は大きく動く。

3~5年間の平均値や中央値を確認するのが望ましい。

年収以外の条件も重要

製薬業界では、早期退職や組織再編が増えている。

高年収でも、ポジションの安定性、昇進機会、専門性の蓄積、勤務地、退職金、株式報酬、福利厚生などによって、実質的な待遇は変わる。

まとめ――年収の差は「会社の格」ではなく、事業構造の差

製薬メーカー間の年収差は、単純な会社規模や知名度だけでは説明できない。

主な要因を整理すると、次のようになる。

  • 従業員1人当たりの利益が高い会社ほど、高い給与を支払いやすい
  • 特許期間中の大型新薬やグローバル製品を持つ企業は利益率が高い
  • 高齢・管理職・専門職中心の会社は平均年収が高くなりやすい
  • 業績連動賞与によって、年収は毎年大きく変動する
  • 少人数のバイオベンチャーや持株会社は、平均値が歪みやすい
  • 後発品、製造、物流など人員集約型の企業は、売上規模の割に1人当たり利益が低くなりやすい

言い換えれば、平均年収は「会社が儲かっているか」だけでなく、

「どのような社員が、何人で、どのような利益を生み出しているか」

を映した数字である。

製薬企業の年収ランキングを見る際には、順位そのものよりも、その背景にある製品ポートフォリオ、利益率、従業員構成、報酬制度を読み解くほうが、はるかに重要である。

今回のランキングで最も注目すべきなのは、サンバイオの2,000万円という数字そのものではない。

中外製薬のように、高い利益率と従業員生産性を安定的に実現している企業と、少人数ゆえに平均値が大きく動くバイオベンチャーとでは、「高年収」の性質がまったく異なるという点である。

平均年収は企業分析の入り口にはなる。

しかし、その数字だけで会社の待遇や魅力を判断するのは危険である。

見るべきなのは、年収の高さではなく、その年収を支えている事業構造が、今後も持続可能かどうかである。

タイトルは、検索流入を意識するなら「製薬会社の年収はなぜ高い?メーカー間で500万~2000万円の差が生まれる理由」などにも調整できます。

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AIで患者は変わった。しかし医療システムは変わっていない――「Future of Health Report 2026」が示す医療の再設計

ZS Impact Instituteが公表した『2026 Future of Health Report』は、生成AIによって患者の情報収集や意思決定が大きく変わる一方、医療システムは依然として「医師を中心に患者が順番どおりに動く」旧来型モデルにとどまっていると指摘しています。

レポートの副題は、「医療は、もはや存在しない世界のために作られた。では、どう作り直すべきか」です。

本記事では、このレポートの内容を整理し、製薬企業を含む医療関係者にとって何が重要なのかを考えます。

調査の概要

調査は2026年1月から3月にかけて、米国、ドイツ、中国で実施されました。

対象は約9,000人の成人医療消費者と、1,400人以上の医師です。加えて、米国・ドイツのプライマリケア医19人と、少なくとも一つの慢性疾患を持つ患者12人への定性インタビューも行われています。

日本は調査対象に含まれていません。そのため数値をそのまま日本市場に当てはめることはできませんが、AIを使って症状や治療法を調べる患者が増えているという構造的変化は、日本でも無関係ではないでしょう。

患者の「最初の相談相手」が医師とは限らなくなった

レポートの最大のメッセージは、医療における情報の非対称性が急速に縮小していることです。

これまで患者は、症状について知りたいとき、まず医療機関を受診し、医師から情報を得るのが一般的でした。しかし現在では、検索エンジンや生成AIに質問し、自分なりの仮説や希望する治療法を持って受診する患者が増えています。

AIを医療情報の収集に使っている人の割合は、米国18%、ドイツ15%、中国29%でした。さらに、利用者のうちAIの情報を「役に立つ」と評価した割合は、米国とドイツで89%、中国で94%に達しています。これはプライマリケア医に対する評価にかなり近い水準です。

もちろん、レポートが「患者は医師よりAIを信頼している」と主張しているわけではありません。医療従事者は依然として最も信頼される情報源です。しかし、患者の「ファーストオピニオン」が、必ずしも医師から始まらなくなったことが重要です。

また、医師の68%が、特定の治療法を名指しで求める患者が増えたと回答しています。米国では52%、ドイツでは45%、中国では43%の患者が、医薬品を名前で指定して医師に求めた経験があると答えました。

生成AIは単なる検索手段ではなく、患者が自分の症状を解釈し、受診の必要性を判断し、治療の選択肢を検討するための意思決定ツールになりつつあります。

問題は、患者が医療を拒否していることではない

患者がAIやオンライン情報を使う背景には、医療システムへの不満があります。

レポートは、患者が医療専門家を否定しているのではなく、既存の医療システムの中で十分な説明や支援を受けられないため、自分で情報を補っていると分析しています。

AIは24時間利用でき、待ち時間もなく、理解できるまで質問できます。一方、医療機関では予約が取りにくく、診察時間が短く、複数の専門医や医療機関の間を患者自身が移動しなければならないことがあります。

つまりAIは「患者と知識の距離」を縮めました。しかし「知識を得た患者と、実際の診断・治療との距離」は、まだ縮まっていません。

ここに現在の医療の最大のギャップがあります。

患者ジャーニーは、あらゆる段階で分断されている

レポートでは、患者が医療に入ってから治療を続けるまでの過程を、次のように整理しています。

  • 予防・健診
  • 医療へのアクセス
  • 診断
  • 治療開始
  • 治療継続
  • モニタリングと管理

問題は、それぞれの段階に医療機関、医師、保険者、薬局、製薬企業、医療機器企業などが存在しながら、段階と段階の「つなぎ目」に責任を持つ主体がいないことです。

患者は個々の診察や検査だけを経験しているのではありません。その間にある待ち時間、紹介、予約、保険手続き、検査結果の解釈、薬局との連絡などを含む一連の体験を経験しています。

レポートの表現を借りれば、患者が経験するのは個別のタッチポイントではなく、「タッチポイント間の距離」です。

1.医療への入口で離脱する

症状が出ても、すぐに医療機関を受診しない人は少なくありません。

症状が生活を妨げるまで受診を避ける人は、米国45%、ドイツ68%、中国54%でした。

受診を避ける主な理由としては、予約の取りにくさ、手続きの煩雑さ、費用、医師に話を聞いてもらえない感覚、医療への信頼不足などが挙げられています。

患者は医療を必要としていないのではなく、「医療に入るために必要な労力が大きすぎる」と感じているのです。

2.診断は一つの出来事ではなく、迷路になっている

診断の遅れも大きな問題です。

専門医を受診するまで3カ月以上待った患者は、米国42%、ドイツ40%、中国37%でした。また、診断のために4人以上の医療従事者を受診した患者も、各国で14~16%いました。

さらに米国では、診断の遅れによって病状が悪化したと回答した患者が30%に達しています。

診断の遅れは、単に検査が不足しているためではありません。検査、紹介、専門医受診、結果説明といった一連のプロセスが分断され、誰も患者の「次の一歩」に責任を持っていないことが原因です。

患者側では、プライマリケア医が専門医間の調整を行ってくれたと答えた割合は、米国58%、ドイツ54%でした。一方、医師側では、自分が調整を行っていると答えた割合が米国83%、ドイツ80%に上っています。

医療者が「調整している」と考えていることと、患者が「調整されている」と感じることには、大きな差があります。

3.処方されても治療が始まらない

医師が治療方針を決定し、処方箋を発行しても、治療が開始されるとは限りません。

処方された治療を開始しなかった患者は、米国29%、ドイツ24%、中国32%でした。また、治療を途中で中止した患者は、米国58%、ドイツ44%、中国52%に達しています。

医療提供側にとって処方はゴールに見えます。しかし患者にとっては、そこから保険確認、自己負担額の把握、薬局との調整、通院計画、副作用への不安への対応が始まります。

レポートが特に注目しているのは、治療を始めない理由について、医師と患者の認識がずれていることです。

米国では、患者が治療を始めない最大の理由として副作用を挙げた割合が36%でした。しかし医師は、副作用を主要な理由の7番目にしか位置づけていません。

医療者は費用を重視しやすい一方、患者は副作用、治療負担、効果への不安など、生活上の現実的な問題を重視しています。

解決策としての「患者との距離ゼロ」

レポートが提案する新しい医療モデルが、「Zero distance to the patient」、すなわち「患者との距離ゼロ」です。

これは、単に患者中心という理念を掲げることではありません。

患者が次に何をすべきか分からなくなる瞬間をなくし、診療、検査、保険、薬局、治療支援の間を、患者自身に移動・調整させない仕組みを作ることです。

例えば、患者との距離ゼロの医療では、次のような状態が想定されています。

  • 症状を入力すると適切な診療科や受診場所に案内される
  • 検査結果に応じて次の検査や専門医紹介が自動的に動き出す
  • 治療の選択肢と利点・欠点が患者に明示される
  • 保険適用や費用が治療開始前に確認される
  • 治療開始が遅れそうな患者をAIが予測する
  • 患者ごとの障壁に応じて、担当者や支援策が自動的に割り当てられる
  • 治療後のデータから異常を検知し、次の対応につなげる

重要なのは、医療情報を提示するだけではなく、「次の行動が実際に起こるところまで」を設計することです。

すでに始まっている実装事例

レポートでは、米国の大規模医療システムBaylor Scott & White Healthの事例が紹介されています。

同システムは、患者の症状を構造化して受け取り、自動化された仕組みと人による支援を組み合わせてトリアージを行い、適切な医療機関に患者を振り分けています。

さらに、受診後のフォローアップやプライマリケア医への情報連携も行います。

その結果、問題解決まで通常8~10週間かかっていたプロセスが約1週間に短縮され、救急部門を受診する可能性があった患者の80%が、より軽症向けの適切な診療環境へ誘導されました。

ここでの本質は、最新技術を導入したことではありません。患者が自力で医療機関を探し回る構造そのものを作り直した点にあります。

製薬企業は「処方後」だけを見ていてはいけない

このレポートは製薬企業に対しても、従来の役割を大きく広げるよう求めています。

これまで製薬企業は、新薬を開発し、医師に情報を提供し、患者が処方されるところまでを主な活動領域としてきました。

しかし患者が医療機関に入る前からAIで情報を収集し、治療選択に関与するようになった現在、製薬企業は「処方されるかどうか」だけでなく、「患者が診断にたどり着くか」「処方後に実際に治療を始めるか」にも関与する必要があります。

レポートは、製薬企業に二つの変化を求めています。

第一は、患者ジャーニーのより早い段階に関与することです。

疾患啓発やDTC活動を単なる需要喚起としてではなく、症状を抱える人を適切な医療へつなぐ「入口」として再設計する必要があります。

第二は、処方から治療開始までを一つの連続したプロセスとして管理することです。

保険確認、事前承認、薬局への連携、費用支援、患者への説明といった個別施策を分断して運用するのではなく、データとAIを使ってエンド・ツー・エンドで調整することが求められます。

ある希少疾患治療薬の事例では、治療未開始率が約30%に達していました。そこでAIを使って未開始リスクの高い患者と障壁を特定し、医療機関への保険手続き支援、患者への費用支援、デジタルでの情報提供などを患者ごとに実施しました。

その結果、試験地域では治療未開始率が25%低下しています。

保険者、医療機関、医療機器企業にも役割の再定義が必要

レポートは、医療の各プレーヤーに次のような変化を求めています。

保険者

保険者は請求を審査するだけではなく、患者の医療行動を支える「ヘルスケアのOS」になるべきだとしています。

保険者は長期的な医療データを持ち、複数の医療機関をまたいで患者の動きを把握できる立場にあります。AIを活用すれば、病状が悪化する前の受診勧奨や、個別化された支援を行える可能性があります。

医療提供者

医療機関は、患者が必ず自院の決められた入口から入ってくるという前提を捨てる必要があります。

今後、患者はオンライン診療、小売店舗、在宅医療、DTC検査、AIなど、さまざまな入口から医療に入ります。医療機関には、どこから入った患者であっても適切な診療に誘導し、途中で止まらない仕組みが必要です。

AIは、診療記録を効率化するだけではなく、トリアージ、診断経路の絞り込み、次の診療への接続に活用すべきだとされています。

医療機器・診断企業

医療機器の価値も、機器単体の性能だけでは測れなくなります。

機器から得られたデータを、次の受診や治療変更に結びつけられるかどうかが重要です。遠隔モニタリング、在宅ケア、服薬継続支援、異常値に応じた介入まで含む「接続されたケアプラットフォーム」へ進化する必要があります。

診断企業についても、正確な検査結果を出すだけでは不十分です。結果を解釈し、専門医紹介や次の検査につなげる「結果と行動の間の知能レイヤー」が求められています。

このレポートから読み取れること

このレポートの結論は、単純に「医療でもAIを使おう」というものではありません。

AIによって患者はすでに変わりました。情報を持ち、自分で選択肢を探し、医療機関に行くかどうかを判断するようになっています。

一方、医療システムは依然として、患者が医師の指示に従い、決められた順序で受診し、処方された治療を自然に開始・継続することを前提にしています。

この前提のずれが、受診の遅れ、診断の遅れ、治療未開始、治療中断を生んでいます。

AIが患者を医療から遠ざけているのではありません。既存の医療が複雑で分断されているため、患者がAIを使って自力で前に進もうとしているのです。

レポートは、患者が自分で医療経路を作る状態が続けば、将来的に医療が二つに分かれる可能性を警告しています。

一つは、日常的な健康管理や意思決定を担うAIやデジタルサービス。もう一つは、病状が深刻になってから利用する従来の医療システムです。

それは患者にとっても、医療機関、保険者、製薬企業にとっても望ましい姿ではありません。

まとめ

『Future of Health Report 2026』が示す最大の論点は、医療の競争軸が、個々の製品や診療の質から「患者を次の行動につなげられるか」へ移りつつあることです。

製薬企業は処方で終わることができません。医療機関は診察の終了で終わることができません。保険者は請求審査で終わることができず、医療機器企業も製品の販売で終わることができません。

各社が自分の担当領域だけを最適化しても、患者ジャーニー全体は改善しないからです。

今後の医療で重要になるのは、誰が患者と最も多く接触するかではなく、誰が患者の次の一歩に責任を持つかでしょう。

AIによって、患者と医療情報の距離はすでに縮まりました。

次に求められているのは、患者のニーズと、実際の診断・治療・継続支援との距離を縮めることです。